東北アジアの市民交流を進める歴史と教育のマダン

北海道の市立名寄大学で講演する機会を得た。人口3万人の小さな市の、在籍学生800人の小さな大学。最北端の公立大学だという。学科は保育士や幼稚園教諭、看護士などの実務系養成課程が中心で多くが道内と東北地方から入学してくる。

新千歳空港から特急で2時間かけ、途中からは乗用車で迎えに来てもらった。対抗車線に時々しか車は交差せず、約1時間半の道のりで名寄市に到着した。名寄の街は見るからに穏やかで、建物の奥の雄大な山並みは美しく、道路はまるで北米を思わせるように広い。近くを流れる河川で懸命に遡上する鮭たちの姿が見え、街路樹の紅葉は情熱的で生気を帯びていた。短い秋が終わりを告げつつあるという。人々は自然と調和して暮らし、表情には温かみがあった。

講演などの仕事をこなし、学生たちとの楽しい交流を終えた後、今回の講演会を世話してくれた教授に連れて行ってほしいところがあるとお願いした。

大学から車で約1時間。幌加内町のはずれの朱鞠内(しゅまりない)湖。戦時中に造られた人口湖で水力発電用のダムだ。ここでは1943年のダム完成まで2000人近い朝鮮人、中国人が働かされていた。

マイナス41度を記録した極寒の地。さすがに冬場の工事は避けられたとはいえ、戦時状況が悪化するにつれ労働はより過酷になっていった。完成したダムは結局、地形上の理由から効率が悪く、発電量はごくわずか。結局突貫工事は大きな意味をもたらさなかった。

今は夏場のオートキャンプや季節問わず釣り客の最良スポットとして知られている。ただし、国策のダム工事に動員された国内の貧しい農民や朝鮮人、中国人がこの地で虚脱するほどに苦しめられた歴史を知る人はほとんどいなかった。

この工事現場でも当然のように事故や事件で犠牲者が出ていた。役場に残る埋火葬認可記録によって確認できる死亡者のうち、36人に朝鮮人名が記されていた。ただ、それ以外にも確認できない犠牲者はまだ多数いるはずだと、この地域の歴史掘り起こし調査を続ける空知民衆史講座のメンバーは話す。

この人口湖の隠された歴史は1979年、湖畔の古寺「光顕寺」に空知民衆史講座のメンバーが訪れたことで明らかとなった。檀家が「光顕寺」に安置されている朝鮮人名の位牌の扱いに困っての連絡がきっかけだった。

朱鞠内湖、つまり朱鞠内ダムに関する戦時下の突貫工事の実態が空知民衆史講座によって次々に明らかとなっていった。文献や証言などを頼りに朝鮮人、中国人たちの強制動員の実態をわかり始めた。事故や事件による犠牲者は「光顕寺」に一時保管された後、集落の共同墓地隣接の笹薮に葬られたことがわかってきた。

1997年には空知民衆史講座が呼びかけて笹薮の発掘調査が行われた。私もそれに参加した。10日間に渡る発掘調査で4体の遺骨が発見された。2体は納棺されていて副葬品から身元が明らかとなった。のちに遺骨を遺族のもとに返還することができた。ただ、あとの2体は損傷が激しく、地に穴を掘り無造作に放り込まれたような不自然な姿で発掘された。身元のわかる遺品は見つからなかった。

あれから10数年の歳月がたち、再び訪れた朱鞠内ダムの湖畔。「光顕寺」にも立ち寄り、迫りくる北海道の冬の足音をそこで聞いた。まだ雪はないが、風にふれるだけで身体を凍てつかせる寒気が笹薮を揺らしていた。

この極寒の地で働いていたという生存者が韓国で見つかっている。私の訪れる少し前に市民団体が招き、六十数年ぶりにこの地を訪れていた。この90歳の古老は「雪の積もる時期までは、腰あたりまで水につかって働かされた」と当時を振り返った。

「光顕寺」は1997年以降、東アジアの平和を創造する歴史資料館として日韓青年交流の重要拠点となっている。毎年多くの韓国、在日、日本人の青年たちが訪れ、共同ワークショップが開催されている。1997年に発掘された2体は今も「光顕寺」に納骨されている。ワークショップではこの遺骨のことを必ず紹介し、歴史の真実に光をあててきた空知民衆史講座が若者たちに本当の意味での未来志向とは何かを問う。

朱鞠内の湖畔、笹薮、そして光顕寺。そこに立ち想像力を発揮すれば、この地に連れられた人々がここで死ぬかもしれないとの恐怖を抱き、郷里から見当もつかない遠い地で身を縮みこませていたその姿が脳裏に浮かぶ。声なき声に耳傾けることが歴史のもう一つの役割であるとすれば、これほどまでに信じがたい歴史史実の重みをどのように表現しえるか。

歴史を学べば未来へ歩む道はおのずと見えてくる。歴史は未来を学ぶこと。とにかく二度と繰り返さないために、その歴史の扉を開けるのだ。日韓、日朝はもちろん東北アジア地域の平和はやはりそこからの出発でなければならない。

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