東北アジアの市民交流を進める歴史と教育のマダン

2009年春、桂小米朝改め5代目桂米団冶が誕生した。先代の四代目「桂米団冶」は、人間国宝桂米朝師匠の師匠にあたり、上方落語噺「代書」を創り上げた人でも知られる。「代書」は四代目が実際に代書屋を営んでいたことから生まれた噺だ。最近では、燻し銀三代目桂春団冶師匠が得意とし、昭和の爆笑王、故桂枝雀師匠も生前によく演じていた。ただ、ネタはアレンジされたもので、オリジナルのネタではない。オリジナルの「代書」は放送で流せないネタとされ、タブー視されてきた。

落語噺「代書」は、上方落語、いや東京落語も含めてたぶん唯一、朝鮮人が登場するネタである。1973年に桂米朝師匠が演じたオリジナルのネタをCDで、2009年5月に5代目が落語会で演じたものをじかに聞いたが、「代書」にとって朝鮮人の登場場面は大切な壺になっている。ただ、その部分こそがタブーとされたのだ。

四代目が代書屋を営んでいた場所は現東成区役所の敷地の一角で、朝鮮人が多く暮らす旧猪飼野のはずれ。客に朝鮮人がよほど多かったのであろう。朝鮮語なまりの日本語のリアルさには感心する。特に重要なのは、済州島なまりであるところ。私などは子どもの頃から家族、親戚の済州島なまりの日本語を聞いて育ったので郷愁すらある。

「代書」は字の読み書きできない客と代書屋の珍問答からなる。爆笑ネタと言っていい。ある古老にこのネタを聞いていただいたところ、「戦前は字の読み書きできない人が多かったから、代書屋で滑稽に受け答える客の姿に人々は自分自身を重ねたんやろうなあ」と述べられた。たしかに戦前がまだ近かった1973年のCDを聞くと、笑いどころが字の読み書きできない客の無学さではなく、むしろ、無学の客にいいようにもてあそばれる代書屋の当惑ぶりであった。済州島出身者が登場する場面も同様で、噺は人情味に溢れ、温かみがあり、タブー視されるようなネタには到底思えず、このままこのネタがお蔵入りされるのはもったいないと思った。

ただ、時代は今。読み書きのできない人々の悲哀に触れることも少なくなった。現代人がこのネタを聞けばどうだろうか。やはり無学さが笑いの的になるやも知らず。諧謔も時代と共に移ろうことは仕方なきことか。

話は変わる。大阪市立済美第四尋常小学校で戦前朝鮮語の授業が行われていた。といっても夜間小学校でのこと。義務教育制が不確かな戦前、貧困層はかろうじて公立の夜学に通い、読み書きを学んでいた。大阪市内の場合、もっぱら夜学は「朝鮮人学校の様相であった」らしく、朝鮮人の子どものみならず、すでに学齢期を過ぎた成人たちも学んでいた。

世はすでに軍国主義の時代。日本による朝鮮半島植民地支配は、朝鮮人を皇民化することが国策であった。公立学校で朝鮮語を教えることはそれに反する。済美第四尋常小学校(現在の北区梅田)で校長を務められた高橋喜八郎先生は、苦心しながら、朝鮮人側の切なる願いである朝鮮語授業を始めたと手記に綴っておられる。異国地に渡ってきた子どもたちに民族的な劣等感を持たせてはならないというものであった。もちろん、手記には「同化へのショートステイだ」とし、国策に反してはいないとのアピールもある。ただ、大事な点は、朝鮮語や朝鮮文化に関わる学習が朝鮮人の子どもの学ぶ意欲につながると説いている点だ。ここに高橋先生の教育者の視点が伺える。

私の祖父母は「クンデファン」に乗ってやってきた。「クンデファン」は「君が代丸」のこと。戦前から戦時中にかけ、わが家族の故郷済州島と大阪を結んだ船だ。この船に乗って大阪にやってきた済州島人は島民の5分の1にあたる。

1920年代から太平洋戦争突入の直前にかけ、大阪は東洋のマンチェスターと呼ばれ、東京を追い越し、世界有数の経済都市として栄えた。その頃を大大阪時代とも表す。「君が代丸」は済州島から押し出された植民地下の民を大阪に集結させる船だった。大阪市の人口が爆発的に膨らんだ1940年初頭。その人口300万人の10分の1が朝鮮半島出身者であった。大阪は巨大な口を開け、新興経済都市の労働力として朝鮮半島出身者を吸収したのである。

大大阪の時代、大阪の経済を支えた商工業の工場群には朝鮮人以外にも、鹿児島、沖縄出身者が多くいた。薩摩、奄美、沖縄の人々も、朝鮮人同様、言葉の苦労は大きかった。大阪は“ちがい”ある他者との協働によって、近代化を遂げた都市だと言っていい。つまり、大大阪の都市発展は、多様な背景を持つ人々が寄り合うことで成し遂げられていたのだ。

「代書」に描かれていた四代目桂米団冶のまなざしや、国策に反して朝鮮語授業を認めた高橋喜八郎先生の視点、そこに当時の大阪の人々が持っていた“他者”へのまなざしの一つが映っている。もちろん、大阪においても過酷な植民地支配の刃が朝鮮人を苦しめていたし、差別と貧困が他地域と比べて軽かったわけではない。ただ、朝鮮人に対して温かく向き合った大阪人がいた記憶はしっかり残したい。

東成区役所の敷地の一角に四代目桂米団冶師匠の顕彰碑が立っている。東成の人々の街づくりの賜物だが、この顕彰碑の前で大阪の“よさ”についてあれこれ考えた。そしてたどり着いたのは、多様性に溢れ、ちがいに寛容な大阪の街の風景だった。落語噺「代書」の頃、済美第四尋常小学校で朝鮮語を教えていた頃、日本全体は戦争へと突き進んでいた。戦争が激化する直前まで、独特のニューマニズムが大阪の街にはあった。不幸なのは、こうした人々もまた軍国主義の怒涛の中で、冷徹にも戦争へと駆り立てられてしまったことである。大阪のよさが全体主義に飲み込まれた瞬間であった。

大阪のヒューマニズムは蘇ったのか。もう一度、そのような視点で大阪の街を眺めてみたい。

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