東北アジアの市民交流を進める歴史と教育のマダン

ロシア・サハリン州の住民は百を超える民族で構成されており、ロシア人が約85%と圧倒的多数を占めるが、その次に多いのが韓人(朝鮮人、約5%)である。その背景には当然日本の朝鮮植民地支配と、アジア侵略戦争の遂行、そして戦後の東西冷戦の中で、日本が植民地責任、戦争責任を回避し続けてきたという歴史が存在する。1989年に日本赤十字社と大韓赤十字社による「在サハリン韓国人支援共同事業体」が発足し、ようやく祖国・韓国への一時帰国、そして永住帰国の道が本格的に切り開かれた。2011年度までに約3500人が永住帰国を果たしたが、しかしサハリン韓人社会の置かれた状況を見ると、未だ問題は山積している。

去る3月23日から27日にかけて、サハリン州韓人協会、サハリン州韓人老人会、サハリン州韓人離散家族協会、サハリン二重徴用鉱夫被害者遺家族会の四団体(*1)の代表、顧問の計五名が東京を訪れた。目的は、日本の政府・国会に、当事者の声を直接伝え、未だ残る問題の解決に対して積極的な関与を引き出すとともに、いま日本ではほとんど認識されていない〝サハリン残留韓人問題〟に関する世論化を図ることであった。この訪日行動は、上記4つのサハリン韓人団体と、韓国で同問題に精力的に取り組む地球村同胞連帯(KIN)、サハリン希望キャンペーン、韓日市民宣言実践協議会の3団体、そしてコリアNGOセンター、在日コリアン青年連合(KEY)、全国在日外国人教育研究協議会(全外教)の日本側3団体によって構成された「サハリン韓人団体代表団訪日行動実行委員会」が実施にあたった。当センター東京事務所は現地側の窓口として、今回の訪日行動の企画・渉外・準備全般を担った。また、昨年8月にサハリンで開催された在外同胞NGO大会の日本側参加者の大部分が参加し、とくに関西からも大勢駆けつけてくれ、今回の訪日行動の遂行を物心両面で支えてくれた。

■証言集会で、サハリン韓人問題を訴える

証言集会(3月24日開催)

証言集会(3月24日開催)

サハリン韓人代表団が東京に到着した翌日となる3月24日、文京区にて、『サハリン韓人が歩んできた75年』と題する証言集会を開催し、約70名が参加した。前日、代表団を取材した記事がこの日の朝日新聞朝刊に掲載されたのを見て参加したという人もいた。
集会ではまず、全外教の藤川正夫さんが実行委員会を代表して開会挨拶を行ない、サハリン韓人団体代表団の訪日に対して歓迎の言葉を述べた。また藤川さんはこの集会に合わせて、樺太庁内政部総務課編「樺太庁統計」を丹念にチェックし、戦前にサハリン(当時、樺太)にいた朝鮮人の各行政区別人口推移などを統計資料としてまとめて、集会の配布資料として提供してくれた。

キム・ホンジン サハリン州韓人協会顧問

キム・ホンジン サハリン州韓人協会顧問

続いてサハリン韓人社会の歴史と現況を伝えるためにKINが制作した映像(約30分)を放映した後、代表団を代表して、サハリン州韓人協会のイム・ヨングン会長が登壇、サハリン韓人らが経験してきた歴史について言及した。
「戦前、日本の戦争遂行のために一世たちがサハリンに連れて来られ過酷な労働を強要された。しかしその対価となる賃金は支払われず、契約期間も守られず敗戦まで働かされた。戦後、祖国に帰れると希望を持ち生活を送っていたが、その希望は水の泡のように消えてしまった。また戦後は無国籍者としてどの国家からも保護を受けることなく、労働も賃金や休暇がロシア人より少ない、また他の町に行くときは許可証を要求された。
一世らは故郷に帰る希望がなくなると、お酒を飲んで身世打鈴を歌うような生活を送る人が多く、精神疾患にかかる人、自殺する人までいた。多くが40、50歳を過ぎることなくあの世に行くことで、苦しみが終わった。

イ・サンチョル サハリン州韓人老人会代表

イ・サンチョル サハリン州韓人老人会代表

解放後に生まれた二世らも、昔は両親にならう形で無国籍者であった。二世たちの多くは中等教育を受けられるようになったが、ソ連国籍がないため大学には入学できなかった。向学熱が強い韓人の中には、大学入学のためにソ連国籍を取得する者が出てきたが、両親はいずれ祖国に帰ることを夢見て、無国籍として残った。
今は、サハリン韓人一世が大韓民国に永住帰国できるようになった。しかし、そのためにはサハリンに子ども、孫たちを残して行かなければならない。この永住帰国政策は新しい離散家族をつくった。この問題は今日まで継続している。
サハリン島には現在、一世たちの子孫が約2万5千人残っており、日本政府の政策を注視しているという事実を忘れないでほしい。日本政府は、これ以上サハリン韓人問題を後回しせず、完全に解決することを訴えるために、私たちは東京までやってきた。日本の方々が支持してくれることを心より念願する。」

続いて、樺太帰還在日韓国人会会長の李羲八(イ・フィパル)さんが、ご自身の体験について証言をされた。

李羲八・樺太帰還在日韓国人会会長

李羲八 樺太帰還在日韓国人会会長

李羲八さんは、1923年生まれ。日本の労務動員計画の下で行なわれた募集を通じて1943年、サハリンに渡り、過酷な炭鉱労働に就くことになった。戦後は他の人たちと同様、祖国に帰ろうとしたが帰還ができなかった。ところが配偶者が日本人であったため、日ソ共同宣言後の1958年、配偶者に付き従う形で日本に渡ることができた。日本に到着してからは長年、同じくサハリンから引き揚げてきた朴魯学(パク・ノハク)さんらと共に「樺太抑留帰還韓国人会」を結成し、サハリンに残された韓人らと、韓国にいるその家族らとの間をつなぐ役割を果たしながら、サハリン韓人の帰国を実現すべく日本政府や国会に働きかけ続けてきた、それこそ人生の大部分をサハリン同胞のために注いでこられた一世である。この日は主に、サハリンでの炭鉱労働の体験について話してくださった。当事者だからこそ語ることのできる詳らかな証言に、会場の参加者は静かに耳を傾けていた。
会場からは様々な質問が出されたが、サハリン州韓人協会の元会長で現在顧問のキム・ホンジさんが適宜丁寧に回答をしてくれた。
集会の最後に、当センターの金朋央・東京事務局長が、ロシア、韓国、日本の三カ国で推進していく「サハリン韓人歴史記念館建立のための75人推進委員会」の紹介と、その日本準備委員会の結成を提案し、拍手で確認された。既に韓国とロシアでは委員会は発足しているが、日本はこれからである。日本委員会の正式発足に向けて、多くの人の参与と協力を呼びかけて集会は締め括られた。

■外務省に「要望書」を提出
翌25日、代表団及び実行委員会メンバーは、霞ヶ関と永田町を廻った。この日の訪問先は全て、長年サハリン韓人問題に携わってこられた第一人者である高木健一弁護士が窓口となり渉外を担当してくれたことで実現が叶った。
まず外務省を訪問した。応対してくれたのは、外務省北東アジア課の日韓交流室長ら三名。そこで代表団は、サハリン残留者に対する支援、郵便貯金等の未払金問題など五項目からなる「要望書」を提出し(原文はロシア語、それを韓国語と日本語の翻訳し、計三言語の文書を提出)、日本政府からの回答を求めた。
その五項目は、以下の通りである。

一 1995年に日本政府がサハリン韓人団体に約束したあらゆる条項を実行し、サハリン残留を希望する者たちに永住帰国者と同様の条件で生計支援を行なうこと。
二 サハリン韓人の郵便貯金、簡易保険等の問題において、日本側は法的対応という原則を立てているが、これ以上遅滞させることなく政治的にこの問題を解決し、貯金全額を投じて「サハリン韓人支援事業ファンド」をつくること。
三 1944年8月11日付日本政府決定により二重徴用された炭鉱夫の名簿と、日本本土まで到着できなかった者らの名簿を公開し、サハリン韓人側にこの資料を提供すること。
四 1952年4月28日に発効されたサンフランシスコ条約によってサハリン韓人らの日本国籍は喪失したというが、これは法的に無効であるため、サハリン韓人永住帰国事業を継続しなければならないこと。
五 サハリン韓人問題の解決において、パイロット計画の第二段階を実行するために、速やかに日本政府とサハリン韓人団体間で協議がなされるようにすること。

一の「1995年の約束」とは、正確には当時の連立与党(自民党、社会党、新党さきがけ)による「戦後50年問題プロジェクトチーム」において出された、サハリン韓人に対する支援政策の基本方向細目のことで、その一つに「日本政府は、サハリン残留選択者に対しては、永住帰国者に見合う必要な処置を行なう。たとえば、サハリン残留者に対して一時金の支給を行なうこと、サハリン文化交流センターの建設等が考えられる」という内容が含まれている。例示のうち後者については、「サハリン韓人文化センター」が2006年、ユジノサハリンスク市内に完成しているが、前者の「一時金の支給」については、何の動きもなく、全く音沙汰もない。この項目に対して外務省側は、「あくまで当時の与党の文書であり、政府が約束したものではないことを理解してほしい」と回答するだけであった。
サハリン州二重徴用鉱夫被害者遺家族会のソ・ジンギル会長は、父親が二重徴用の被害者である。1944年8月の閣議決定の下、サハリンにいた約3200人もの朝鮮人が二重徴用をされたが、その際に日本政府は家族の所へ戻すことを約束したという。ソ会長が、全く記憶にない父親の姓、すなわち自分の姓を正しく知ったのは一六歳のときだという。父の消息を懸命に探し、父が加入していた保険会社の記録から福岡の炭鉱に移ったことまでわかったが、その後どこに行ったのか、生死すら今もわかっていない。ソ会長は、二重徴用者の名簿を明らかにするよう痛切に訴えるとともに、今回外務省が代表団訪問を受け入れてくれたことへの感謝の言葉も忘れなかった。高木弁護士は、「二重徴用問題はこれまで(サハリン韓人問題の中で)あまり注目をされてこなかったが、資料は明らかに残っており、その一部を確認している。政府として、資料を開示するなどの対応が求められる」と述べた。それに対して外務省側からは、「切実な問題だと認識する。ただ70年近く経って、どこまで調査できるかどうかはわからない。何ができるか検討してみる」という回答だった。
その他に郵便貯金の未払い問題や、日韓請求権協定をめぐる日韓政府間の解釈の違い(*2)、サ条約第四条の「特別取極」などについて意見が交わされた。外務省側は「日韓請求権協定で解決済み」という従来からの日本政府の立場を繰り返し、要望項目に対する具体的な約束は何一つなかったが、その一方で「サハリン韓人の皆さんが、現状に納得されていないことは十分に理解する。法的に解決したという処理がされたが、その上で何ができるか。今回はまず要望書を頂いて、誠実に対応するということをお伝えしたい」という発言もあった。
代表団からも、「今回訪問できたことは新しい第一歩として歓迎する。今後もっと頻繁に行き来をし、会って対話を行なうなかで、問題の解決に向けて進んでいきたい」と語られた。これらの発言を現実のものとしていけるかどうか、その責任が今後の行動に課せられたといえるだろう。

■院内集会、国会議員との面談
外務省訪問後は議員会館に移動し、院内集会『サハリン残留韓人問題の現住所-さらなる解決を求めて』を開催した。当事者の声を国会議員に直接伝えようと意気込んで臨んだが、月曜の開催であり、またちょうど参院本会議とバッティングするといった不運もあり、残念ながら国会議員の出席はなかった。しかし、7つの国会議員事務所から秘書またはインターンが出席してくれ、サハリン韓人代表団の証言と訴え、高木弁護士から外務省訪問報告、KINから韓国における取組みの状況報告などを出席者に伝える時間を持てたことは有意義であった。
その後、民主党の代表代行を務める大畠章宏・衆院議員(茨城五区)と面談する時間を持つことができた。大畠議員には地元から戻ってきたばかりの大変忙しいなか時間を割いてもらった。ここでも代表団は要望書を手渡し、各々の思いとともに問題解決を訴えた。大畠議員はその声を傾聴し、サハリン残留韓人問題が現存することを認め、これまで民主党として取り組んできた経緯をふまえて引き続き対処していきたいと語った。

■日赤を訪問、一世の処遇改善を訴える
26日に訪問した日本赤十字社(日赤)では、事業局国際部が応対してくれた。ここでは、とくに一世が置かれている切実な状況について、代表団が報告した。サハリン州韓人離散家族協会のパク・スンオク会長は、「サハリンで暮らす一世は現在800人ほどいるが、最近行なった実態調査では、そのうち183人が永住帰国を希望していることがわかった。しかし、同伴家族が1名までなど厳しい条件があるため、永住を決断できないでいる」と、永住帰国事業が今後も継続され、且つ改善されることを求めた。サハリン州韓人老人会のユン・サンチョル会長は、最大の問題が高齢となる一世たちの処遇であると述べ、韓国への一時母国訪問事業の際に病院で治療を受けられるようにすることはできないか、また独りで行くことが難しい一世が一時訪問する際に、以前は同行者への支援があったが、今はないため思いとどまっている一世がいることなど、健康・生活問題の具体的な指摘と解決策の提案を行なった。
これらの意見に対して日赤側は、「どれも難しい問題で、解決は簡単ではないと思う。しかし、日本政府は一世を支援するという原則にある」と説明し、「今日いろんなご意見を聞き、またお気持ちもたくさん拝聴した。実際に事業を執行している組織として、ぜひ今日聞いた話をもとに、極力反映できるようにしていきたい。日韓両政府にも理解してもらえるように努めたい」と言ってくれたことは、代表団にとって励ましとなった。前日の政府や国会での面談よりも緊張が和らいだ雰囲気の中で、代表団もそれほど遠慮することなく積極的に話せたようであった。赤十字が掲げる「人道・公平・中立・独立・奉仕・単一・世界性」という七つの普遍的原則に基づいた、当事者の側に寄り添った事業が続けられることを期待したい。ちなみにこの訪問後早速、日赤から当センター宛に、各年度の永住帰国者数など「在サハリン韓国人支援共同事業体」の活動実績がわかる年報等の資料が送られてきた。

■三カ国にまたがった行動を
今回の訪日行動を通じて、サハリンに留まらざるを得なかった一世たちの健康・生活問題や、永住帰国にともなう新たな離散家族問題、二重徴用者の安否・消息がほとんど究明されていないことなど、今もサハリン残留韓人問題が深く残っていることを、サハリン韓人たち自身が語る言葉を通じて、直接日本の政治・社会に伝えることとなった。その伝播力はまだまだ微小だというのが事実であるが、それでも訪日行動後に何件か、当センター宛にサハリン韓人問題に関する問合せが来ている。
日本が戦前に行なった植民地支配と侵略戦争の過程はあまりにも甚大な被害をもたらし、現在まで引き継がれたままである。今年に入って、政治家の妄言により日本軍「慰安婦」問題に対する注目が再び集まっているが、これらは本質的には、国と国が利害を衝突させる外交問題ではなく、基本的人権を侵害された被害者たちからの告発と、尊厳回復を求める訴えとして受けとめなければならない。サハリン韓人の強制徴用及び帰還問題も、まさにそうした問題の一つである。一方、李羲八さんら当事者、高木弁護士ら支援者らの存在があり、五〇年代末から長年にわたって、書簡の交換や永住帰国の希望調査、日本での一時面会事業など、まさに身銭を切りながら地道で粘り強い民間の運動が展開されたこと、それが土台となって、日韓両政府も動いて、日韓両赤十字社による永住帰国事業へとつながっていった。その事業は現在まで続いているという点は、数ある戦争責任、戦後補償問題のなかでも特異だと言える。そうした経緯をふまえつつも、未だ山積する人権問題に対して、当事者の立場に立った問題解決のための行動が、日本政府をはじめ、日本・韓国・ロシア三国で連係しながら展開される必要がある。

*1 今回訪日した4つのサハリン韓人団体に関する紹介文(証言集会で配布)は、この「歴史と教育の交流サイト」の「資料室>サハリン韓人」に掲載している。 http://ngo-history.net/library/sakhalin_hanin/
*2 1965年日韓請求権協定締結当時、サハリン韓人は請求権協定の対象外とされた。しかし日本政府は2009年、サハリン韓人徴用者郵便貯金返還訴訟の過程で、韓国に永住帰国し韓国国籍を取得した者の請求権は、日韓請求権協定で解決済みという見解を初めて表明した。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です