東北アジアの市民交流を進める歴史と教育のマダン

 司馬遼太郎作品の『故郷忘じがたく候』を読み直して、陶磁器のことに素人ながら関心を持ちはじめて久しい。大阪中ノ島にある東洋陶磁美術館に親近を感じ、ときおり通っては「やきもの」に遺された歴史の残影に想像力をめぐらせる。陶磁器への誘いは、実は朝鮮通信使から始まっている。講演などで寄せてもらう各地で、近隣に朝鮮通信使ゆかりの地があればなるたけ足を運び、朝鮮と日本が尊びあった頃の息吹に触れている。
 伊勢国に藤堂家の支藩があり、そこの医家に生まれ、のちに京都で開業した橘南谿という医者がいた。天明(1780年代)の人物だ。南谿は医学修行のために全国各地を旅行した人でも知られ、信越から奥州を旅し「東遊記」、九州、四国を「西遊記」に記した。彼は「余、久敷その地に遊ばんことを心がけ居たりしが」と書き、薩摩を訪れ、任壬倭乱(イムジンウェラン)、すなわち「文禄慶長の役」の際に朝鮮から連れてこられた陶工たちが暮らす苗代川の地を、満を持して訪れている。
南谿はこの地で「伸侔屯」という荘官の屋敷に招かれた。「伸侔屯」をシンポウチュウと読んでいるが、現代の言葉ではそうは読めない。南谿は、苗代川を汲まなく歩き、この集落に暮らすものたちが朝鮮の風俗、風習、そして言葉にいたるまでを継承していることに驚く。南谿は前出の荘官、この古老に朝鮮から渡来し何代目であるかを問うた。荘官は「五代」だと答えた。南谿は「しからば朝鮮のことを忘れてしまっておられるであろう」と好奇心を手向けた。すると、「いまも帰国のこと許し給うほどならば、厚恩を忘れたるにはあらず候えども、帰国いたしたき心地に候」「故郷忘じかたしとは誰人に言いおきけることにや。」と穏やかに語ったという。南谿は、「余も哀れとも思いて」と共感を字に残した。
 幕末まで苗代川の人々は朝鮮語を使い続けていたという。江戸時代、薩摩藩は苗代川の朝鮮陶工の子孫たちを保護、優遇し、士族の身分を与えていた。だが、居を地域外に移すことは禁止していた。ある意味で隔離されていたと言っていい。このことが「やきもの」の技術を純粋培養し、より濃いものにした可能性はある。彼らが朝鮮の慣習や言語を何代にも渡り遺したことは当然のことであったと言える。
ちなみに薩摩苗代川の地から輩出された歴史人物に東郷茂徳がいた。東郷は太平洋戦争開戦時と終戦時の外務大臣を務めた人物だが、東郷の父は朴寿勝という優れた陶工で、茂徳自身も旧姓の朴を名乗っていた。
 江戸時代の朝鮮通信使は1607年から始まる。任壬倭乱(イムジンウェラン)終焉後、10年の歳月が経っている。当初、この外交使節団を回答兼刷還使と朝鮮王朝は名づけた。字に現れているとおり、回答とは江戸幕府が送った国書についての返事を携えているという意味であり、刷還とは任壬倭乱(イムジンウェラン)により強制連行された人々を奪還するという意味がある。「文禄慶長の役」はいくら説明を重ねようとも、大義のない侵略戦争だった。この戦いの渦中、豊臣に動員された各地の諸侯らは、大義なき戦いであるがゆえに豊臣の論功行賞を競い合い、無辜の民を殺戮し、そして個人資産にすべく日本に大量に連行してきた。日本に連行されてきた民は2万人を超えている。もちろん、よく知られている塩漬けされた朝鮮民衆の鼻は単純換算しても16万人分に及ぶ。
 日本に連行されてきた2万人の大半は女性と子どもであったが、その中に「やきもの」職人たちがいた。司馬遼太郎の作品では「土器に毛の生えた程度」が当時の日本の技術水準であり、その時点ですでに硬く、着色され、文様が施されている朝鮮陶磁は宝物に見えたであろう。大義なき戦争が、日本の伝統工芸を代表する陶磁器の飛躍的発展の礎を築いたことは言うまでもない。
 徳川幕府が朝鮮との修交を求めた際、朝鮮側から戦後処理を求められている。朝鮮側は謝罪と被虜人、強制連行された人々の返還を要求した。徳川幕府はこれを受け入れているが、その渦中に果たした對馬藩の役割についてはあらためて論じる機会を得たい。ここでは省略する。
 しかし、問題は過ぎ去った歳月と、果たして武家たちが被慮人の返還に同意するのか。すでに連行から10年以上の歳月が経ち、朝鮮語を忘れてしまい、日本で所帯を持つ者などがいて、二度と故国に帰れる日が来ようとは誰も思っていなかった。彼らは彼らで与えられた敵国の地であっても、人としていかに人生をまっとうしようかと誠実に日々を過ごしていた。一方、被慮人を使用人や側室などとして保有している諸藩の幹部や武家たちもその返還に消極的で、実際には全体の10分の1程度しか帰国者は生まれなかったようだ。
 多くの朝鮮人陶工たちも日本で「やきもの」を作り続け、弟子を取り、家族を養い、そして最後は異国の土となっていった。日本を代表する有田焼、薩摩焼、萩焼。ほかにも多く、朝鮮人たちが歴史の宿命のうちに遺した陶磁器が、世界で有数の工芸品として高い評価を受けている。朝鮮半島と日本の2000年以上に及ぶ、忘れられないエピソードのひとつである。朝鮮陶磁器を見て、故国の山河を思い浮かべた朝鮮人陶工たちの姿を頭に思い描いてみる。そこに秘められた「やきもの」の物語がさらに深いところへと自分自身を誘ってくれる。それは悲しい物語なのだが、歴史を歩むという意味では楽しきことでもある。歴史を歩む、歴史を未来に向かって歩む。少し情緒的すぎるか。

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