東北アジアの市民交流を進める歴史と教育のマダン

サハリン南部地図(作成:北海道日本ロシア協会)

サハリン南部地図
(作成:北海道日本ロシア協会)

韓国のKIN(地球村同胞連帯)主催で開かれた「第5回在外同胞NGO大会」(2008年7月29日~8月3日)に参加する機会に恵まれ、ロシア・サハリンに初めて行った。
とくに印象に残っているが、ウグレゴルスクの訪問である。そのことについて、少し書いてみたい。

大会2日目の朝。この日から次の日にかけて、3班に分かれての現場訪問、韓人一世・二世らの聞き取り調査を行った。私が向かったのは、ウグレゴルスク。ユジノサハリンスクから北北西へ360kmほど離れている、西海岸に位置する街である。石炭の街でウグレゴルスク周辺には日本統治時代には16もの炭鉱があったという。今回の現場訪問ではたくさんの炭鉱跡を廻った。

7月30日午前7時過ぎ、チャーターされた赤のマイクロバスで出発した。このバスは韓人の篤志家が韓人の団体のために寄付してくれたものだという。乗車したのは、大会の参加者9名(うち在日同胞は私一人)、途中でピックアップしたサハリン韓人三世1名、ロシア人の運転手となぜかその妻、そしてこのコースの全行程の案内をして下さったパク・イルソプ先生(社団法人ユジノサハリンスク市老人会副会長)の総勢13名。この先生、とにかく元気で、車中はバスガイドさながら韓国語でいろんな案内をしてくださり、かと思うとロシア語で運転手にいろいろ注文付けたりという感じだった。

ウグレゴルスクまでの移動は、青空市場を見物したり、小さな食堂で昼食を取ったり、何もない山道で魚を売る出店に立ち寄ったりなど、寄り道をいろいろした。道路はユジノサハリンスク市内はアスファルト舗装されていたが、少し離れると土の道で、凸凹が激しいところも多い。そこを尋常ではないスピードで走るものだから、車の中はまさに嵐のようで、何人かは座席から放り出されたくらいだった。一度往復するくらいならば面白いで済ませられるけれども、親類や友人に会おうとするのも一苦労であることを考えると、道路の整備の必要性を感じた。

ウグレゴルスク内の最初の目的地に到着したのは、7時間以上過ぎた午後2時40分。ウグレゴルスクにある韓人会の事務所を訪問し、1回目の聞き取り調査を行った。ここで、ウグレゴルスク現地の案内役を務めてくれたキム・ホンシク先生が合流した。事務所には4人のハルモニ(おばあさん)がいらっしゃった。キム・ホンシク先生が4人のハルモニに語りかける形で、それぞれの体験話を聞いた。いらっしゃった方々は両親についてサハリンに渡ってきた方たちで、いつどういう経緯でサハリンに移ったのか、家族がいつどこに行ったのか、サハリンでの生活はどうだったのか等について切々と語られた。「ここで仕事するには炭鉱しかない」「食べていくのが本当に大変だった」など・・。永住帰国をしたいかという質問に対して「家族を置いて帰れるわけがない」という言葉は、サハリン韓人の永住帰国問題の本質を突く言葉だった。また日本名を名乗らされた辛さについても言及があった。そういった話を聞いていると、私は在日同胞のハルモニ、ハラボジ(おじいさん)たちの話を聞いている時と重なった。簡単に同じというべきではないが、日本の植民地支配によって国を離れざるを得なかった点ではまさに共通、話が似ているのは当然なのかもしれない。

話を伺っていると、突然一人のハルモニが突然私に対して質問したいことがあると言い始めた。そして日本の支配によっていかに自分の家族が苦労を強いられ、そして引き裂かれ、戦後は放置されたかについてとうとうと語られた。そして「この日本が犯した歴史をあなたはどう思うのか?」と詰め寄った。私が日本人だとそのハルモニは勘違いしてそう聞いてきたのである。私はその返答をしばし躊躇した。何と答えるべきなのか?結局は「私は在日同胞三世で、ハルモニたちと同じで、私の祖父母が日本に移り住んで・・」と答えた。ハルモニは「あっそう?」とちょっと拍子抜けした感じで、その後とくに話すこともなくその場はそれで終わった。その回答は間違っていたとは思わないが、ただ一方でもしも私が日本人の同世代の友人と訪れていたら、もっと言えば私が日本人の青年だったら何と答えていたのだろうかという問いは今も持っている。「ごめんなさい」と謝ることでは決してない。サハリン韓人の問題に対してどう理解していて、自分たちは何をすべきと考えているのか、ある程度理論的・理性的に答えることはできるが、それがはたしてハルモニにとってどんな意味を持つ回答になるのだろうか?当事者を面とする時、その問いの重さは一挙に深まる。

聞き取り調査は1時間ほどで終了し、ハルモニらと記念写真を撮ってその場を離れた。次に向かったのは大平炭鉱。この炭鉱は現在も稼動中で、私たちが訪れた16時過ぎはちょうど退勤(交替)時間に重なったのか、ロシア人労働者たちがバスや車で移動する姿を見かけることができた。私たちは既に閉鎖している炭鉱の坑道入口跡3箇所を見て廻った。人が通ることもなく草が鬱蒼と生えている中をかき分けた所にある入口跡は、この炭鉱がなぜ存在するのか、その歴史が忘れ去られているのを表象しているかのようだった。

坑道跡を見終わった後、バスが停まる駐車場でパク・イルソプ先生が自己の体験談を語り始めた。パク・イルソプ先生の父親がこの炭鉱で働いていたそうだ。その後「二重徴用」でパク・イルソプ先生の父親は日本に渡り、その時生き別れたまま二度と会うことはなかった・・・(間違って記憶しているかもしれません)。今回サハリンに訪れて強く感じたことは、韓人一世・二世世代は一度口を開くと、そこからは私たちが日常想像することもない壮絶な歴史が込められた話が本当にたくさん出てくることだ。時に笑い話を交え微笑みながら話されるのだけど、それ以上に悲惨な体験にこちらは圧倒されてしまい、言葉を発することができなかった。その他お子さんの話や、今の韓人の団体について、韓国の国会に請願に行った話など様々な話題に及んでいた。

亡父が働いていた場所は草原になっていた。チェサの準備をするパク・イルソプ先生

亡父が働いていた場所は草原になっていた。
チェサの準備をするパク・イルソプ先生

パク・イルソプ先生は幼少期に過ごしたこの地を再び訪れたのは初めてだそうで、父親のチェサ(祭祀)をぜひこの地でしたいとその準備をして来られていた。その祭事場を当時神社があった所にしたいということで、神社跡を探すことになった。パク・イルソプ先生の幼少時の記憶を手がかりに探そうとするが、なかなか記憶と一致する所がない。右往左往しているところに、炭鉱で働いているのか何なのか、バス停にちょうど居合わせた韓人のおじさんに尋ねたところ、彼は知っているとのこと!そのことにも驚いたが、普通に韓人がこの地の日常生活に溶け込んでいることに、サハリンにいかに多くの韓人がやって来たのかという歴史を感じた。そのおじさんをバスに乗せて、昔の神社があった所に到着した。今はもう回りに建物も何もない野原で、その面影は全くなかった。野原の上にシートを引いて、豚肉や果物、先述の出店で購入した魚の燻製、菓子とお酒を並べて제사を執り行った。パク・イルソプ先生がまず一人で큰절をし、それに続いて他全員が큰절を行った。その後供え物を軽く飲食しながら、先生の追憶についてまたいろいろ伺った。

次に王子製糸工場跡を訪れた。ここは既に閉鎖しており、大きな建物や塔が、中身ががらんどうのまま残されていた。製紙プロセスで使用される化学薬品のせいかのか、不自然に黄色くなった土砂も見られた。周りに住居もほとんどない静寂の中で、まさに「兵どもが夢の跡」という感じだった。

この日の現場訪問は以上で終了で、最初に到着した韓人団体事務所近くにある、韓人経営のレストランで夕食を取った。テンジャングク、ぜんまいや人参のナムル、米飯とオーソドックスな韓食メニューは美味しかった。ここでぜんまいのナムルを食べるとは思わなかったが、自然の恵みは日本や韓国よりもこちらのほうが豊富なのかもしれない。ただ本場と違うところは、米飯の他にパンも出るという点だ。韓人の方たちは普通にテンジャングクに合わせてパンを食されていた。いかにもサハリンの韓食という感じだった。

宿泊先で懇親会、ウォッカや鮭とば等がふるまわれた

宿泊先で懇親会、ウォッカや鮭とば等がふるまわれた

その日は、女性陣は韓人女性のお宅にホームステイをし、男性陣はキム・ホンシク先生の知人が所有する別宅マンションの一室をお借りして泊まった。車・徒歩合わせて移動時間が非常に長かったためか、他の参加者たちはシャワー後すぐに就寝したが、パク・イルソプ先生はシャツ1枚でまだ元気があり余ってる感じ。私と参加者のキム・ホリョンさんの二人で、魚の燻製を肴にウォッカを飲みながら、パク・イルソプ先生のお話をじっくり伺った。疲れとお酒と私の言語的能力の制限から、全ての話を記憶できず非常に惜しいと思うと同時に、またサハリンを訪れて、その時は万全の態勢でお話を伺おうという思いも生まれた。先生から「翌日もあるので寝よう」と言われ、話は1時間半ほどで終了した(時刻は24時前)。

翌日7月31日、天候は晴れ。サハリンはやはり涼しい、というか朝は肌寒いほど。酷暑の東京からは考えられない快適さだ。しかしその分冬は非常に過酷なわけだが。前日に購入したインスタントラーメンで簡単に朝食を済ませた後、この日の現場訪問プログラムを行うシャフチョルスクに向けて出発した。車で約30分移動し、この日案内をして下さるキム・ウォンジン先生と合流した。この日は最初に訪れたのは、三菱炭鉱跡だった。キム・ウォンジン先生曰く、サハリンは石炭でできている島と言えるくらいで、産業の中心は石炭、日本統治下の時期に多くの炭鉱がつくられた。この地域には、三菱炭鉱、鐘紡炭鉱、白鳥沢炭鉱の3つの大きな炭鉱があったと言う。炭鉱で働く労働者が集まると、当然そこには家族が住み、学校ができ、病院ができ、一つの町が出来上がる。三菱炭鉱は今は採掘していないが、残って住み続ける人たちがいる。まず学校跡を見学した後、炭鉱の坑道入口跡を案内してもらった。前日の大平炭鉱と同じく、坑道や付随する建物の残骸がひっそりと佇んでいる。戦前いかに多くの朝鮮人がここで労働し、そして戦後この地に留まらざるを得なかったのか。幼少期に日本の敗戦/朝鮮の解放をむかえたキム・ウォンジン先生はその歴史をこと具に説明してくれた。それと共にキム・ウォンジン先生の個人史も語ってくれた。一番印象的だったのは、キム・ウォンジン先生が今年10月に実施される永住帰国事業で韓国に移ることを語った時の満面の笑みと弾んだ声だった。「帰る日までの日数を指折り数えて待っている」との言葉を聞いた時に、突然胸がいっぱいになった。大変喜ぶべき事柄だと思うと同時に、しかし子どもや孫ら家族と一緒には永住帰国できない今の永住帰国制度の弊害をキム・ウォンジン先生もまた受けていることを考えると、私たちは純粋に喜ぶだけでいてはならないという厳しい戒めの気持ちもまた湧いてしまう。でもとにかく、キム・ウォンジン先生の笑顔が語ることは真正なものであることは間違いない。

その後、最初に見学した学校跡近くに住む韓人の方のお宅で聞き取り調査を行った。そこに住んでいるのは、キム・ホンシク先生の姉だった。近所に住むもう一人のハルモニのお二人からお話を伺った。家にあがるとまず、お姉さんが昔の写真をいろいろ見せてくれた。ご家族の写真、家族全員での記念撮影写真、1960年代に平壌を訪問した時の写真、などなど。その後、ご自身の体験や今の生活などについてお話を伺った。お姉さんはキム・ウォンジン先生と同じく10月に韓国に永住帰国するとのことで、もうお一人のハルモニはここに残るとのこと。前日と同じく、非日常の世界としか思えない話を淡々と語られる姿を私はじっと見守った。話が終わり退出する時に、お姉さんが私のところに近づいてきて、とても流暢な日本語で「大変遠いところよく来られましたね」と語りかけてくれた時、またも胸がいっぱいになった。サハリンから見れば韓国も日本もそれほど距離は変わらないのに、私だけ特別に気を遣ってくれたことへの嬉しさとともに、これほど日本語が流暢なハラボジやハルモニたちと会った時に毎回感じてきた複雑な感覚である。家を離れる時に二人で記念写真を1枚撮ってもらった。

その後、鐘紡炭鉱跡、白鳥沢炭鉱跡を車で通りながら、戦前に炭鉱近くの病院でガス爆発が起こり犠牲になった人たちの慰霊碑を訪れた。その時の事故で日本人と朝鮮人合わせて70名ほどが犠牲になったという。現場を訪れると石碑は倒れたままになって、人の手入れは全くなく周囲は草が茂る一方であった。キム・ウォンジン先生の話によると、日本からもこの碑に訪れに来るらしく、その時の案内をキム・ウォンジン先生ら韓人たちが担ったりするそうだ。この石碑をきちんと起こして立てようという意見もあると聞いたが、結局そのまま放置されていることに、歴史の風化を感じる思いがした。

その次にシャフチョルスク空港を訪れた。ただ平地が広がり、小さな建物が2つ3つ端に建つだけで、飛行機は一機も見られなかった。今稼動しているのかどうかよくわからなかったが、ユジノサハリンスクとウグレゴルスクに離れて住む韓人家庭が結構多いだろうことを考えると、その両地を結ぶ交通便として航空便の有用性は結構あるように思った。

以上で、サハリン韓人社会に関する現場訪問は終了した。その後はウグレゴルスクに戻る途中に海岸に立ち寄り、前日夕食を食べたレストランで昼食を食べて、ユジノサハリンスク市への帰途についた。昼食の時、キム・ホンシク先生の隣に座っていろいろ話を交わした。パク・イルソプ先生の話と同じく、これまで歩んできた日常が私にとっては非日常と思える話であり、その一方で私たちと同じ日常の話があり、もっと話をしたいと強く思った。ぜひまた一度ここを訪れようという強い気持ちが湧き起こったので、キム・ホンシク先生の連絡先をちゃんと聞いておいた。別れ際にキム・ホンシク先生が誰かとの対話の中で「私は永住帰国せず、死ぬまでずっとロシアにとどまるつもりだ」とおっしゃった言葉もまた、最も印象に残った言葉の一つである。

最後ウグレゴルスクを出発する時に、ロシア人運転手が「ガソリンが不足して、ユジノサハリンスクまで行けない。ガソリン高騰の影響で、ガソリンスタンドに行ってもない」と言い放ち私たちを当惑させるおまけが付いたが(結局ガソリンスタンドに備蓄があることがわかった)、また7時間以上の振動激しいバス移動を経て、21時過ぎに宿舎に到着した。

今回のフィールドワークを通じて、本当に多くのことを感じ、考えた。個人的な話となるが、サハリン残留朝鮮人問題は、私が大学2年生の時に知り、その不当極まる悲劇に強い衝撃を受け、私が在日コリアンという出自や民族について本気で考え始めるようになった大きな機会の一つであった。だからサハリンは私にとって強い思い入れのある地であり、韓人たちと出会うことにとてつもなく大きな期待があった。今回の現場訪問はその期待に十分応えるものであった。

実際に出会い話を交わす時、在日同胞である私は、やはりどうしても在日同胞社会の歴史や現状と比べてしまう。行く前は、サハリンの韓人社会は自分が見聞きしたことのない全く異なる社会をイメージしていたが、今回の現場訪問では在日同胞社会との共通性を感じる機会が少なくなかった。戦前に移り住んだ一世・二世たちの多大なる苦労話は、まさに在日同胞のハラボジ、ハルモニたちの話と通じるものであった。また今回の在外同胞NGO大会を通じて、その後の三世世代以降が現在、自己の民族性を知り育むための民族教育がサハリン韓人社会にとって死活的な課題になっていることだった。自らのルーツを求めて韓国に留学に行く大学生たちがいることもまさしく在日同胞と同じである。戦後の国家体制や社会制度は日本とロシアで大きく異なるが、戦前に日本統治下の異国に移り住み、戦後基本的に少数民族政策が不在であった国に住み続けた点で在日同胞社会とサハリン同胞社会は共通しており、したがって抱える課題が非常に似通っていることも納得がいく。ということは、在日同胞が培ってきた教訓や反省は、サハリン同胞社会にも活かすことができるはずであり、逆に在日同胞社会はサハリン同胞社会から多くを学ぶことができるはずだ。そして、それは本国社会にも多くの教訓と反省をもたらすことができるだろう。戦後63年も過ぎてしまった今日であるが、在日同胞社会もサハリン同胞社会も三世世代以降がこれからもその社会で続いていく。この両社会の青年世代が直接出会い双方社会を学びあう経験をつくる、そのための舞台を作りたいという新しい夢を得たことが、今回のサハリン訪問の最大の成果の一つである。

2008年12月
金朋央(キム・プンアン)

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