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1930年 最大規模の<東亜通航組合>
「我らは我らの船で!」

 1930年11月7日午後6時。 日本の大阪築港から、<東亜(トンア)通航組合>の鮫龍丸(745t)が黒い煙を噴き出しながら済州島に向かった。船は大阪などで労働者として働き帰郷しようとする済州島民たちで満員だった。汽笛を鳴らし徐々に港を離れていく旅客船を見守っていた朝鮮人たちは、感極まって「同胞万歳」「団結万歳」を叫んだ。『東亜日報』1930年11月7日付の記事は、日本植民地時代に日本の海運業界を驚愕させた<東亜通航組合>鮫龍丸の出港をこのように描写した。

  日本の船会社の運賃横暴と朝鮮人不当待遇に対抗して済州島民らが協同組合を作り、済州と大阪を結ぶ航路に旅客船を就航させた。1920年代末から1930年代初め、大阪に行く済州出身の労働者は月平均1000人を超えた。1934年、日本に居住する済州島出身者は当時の済州島の全人口24万人の20%に当たる5万人を超えていた。 済州-大阪航路を行き来していた朝鮮郵船、尼崎汽船、鹿児島郵船などの船賃は10円60銭~12円で、済州出身の労働者たちが利用するには負担が大きかった。

 1920~30年代に大阪-済州を往来した  済州労働者 月平均1000人

高い船賃のために旅客船協同組合を結成
1万2000人が参加して6000円を募金 既存の運賃の半値で船を利用

  大阪に居住していた済州島民は、1928年4月大阪天王寺公会堂で済州島民大会を開き、尼崎汽船と朝鮮郵船などに運賃の引き下げおよび乗客の待遇改善などを要求することを決議したが、これらの会社は交渉に応じなかった。

 これに対し、済州出身で大阪において労働運動を主導していたキム・ムンジュンらが中心になって、1929年4月「我らは我らの船で」というスローガンの下、<済州通航組合準備会>を組織した。翌年4月、協同組合形式の<東亜通航組合>が設立された。

  一口5円ずつを出資して組合員として参加した済州島民は1万2000人に達し、募金額は6000円に達した。この“旅客船協同組合”は、日帝強制占領期における最大の協同組合のひとつとして記録された。

  <東亜通航組合>は、基金が集まるや日本の会社から鮫龍丸をチャーターし就航させた。就航当日、日本の船舶会社では既存運賃12円を3円に引き下げ、優待券まで与えるなどして乗客を奪おうと妨害したが、済州島民たちは、組合の規定どおり6円50銭を出してこの船を利用した。

  当時、ムン・チャンネ東亜通航組合長は雑誌『別乾坤』(第36号、1931年1月)で、鮫龍丸の就航の意義について、「我々朝鮮人はまだ我々の国際的通航船が無く、他人の船に乗っているために、金は金で出しながら、あらゆる蔑視、あらゆる搾取を受けてきた」と話した。彼は「何人かの個人が資本を集めて自分の利益だけのためにやろうというものではない。済州人全体のことであり、延いては朝鮮人全体のことと考えている。今年も我々はこの航路開拓のために一層奮闘するつもりだ。言ってみれば、海戦だ」と明らかにした。

 1931年11月には北日本汽船会社からチャーターでなく伏木丸(1300t)を買い入れ就航させた。しかし、1934年以降、船舶の座礁と日本の船会社との競争などで衰退し、結局1936年に廃業に追い込まれた。1936年6月21日付『朝鮮中央日報』は、東亜通航組合の解散後、尼崎汽船が大阪-済州航路を独占して横暴を働き運賃を値上げした結果、済州島民が大打撃を受けたと報道した。済州/ホ・ホジュン記者

 (7月27日 ハンギョレ新聞日本語訳文掲載日)

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