東北アジアの市民交流を進める歴史と教育のマダン

2004年盧武鉉韓国大統領は日本政府に、日本国内に残る戦時下で犠牲になった朝鮮人の遺骨調査とその返還を要請した。当時の小泉純一郎首相はこれに応じ、全国から情報を得て19回に渡る日韓共同調査を行い、2008年に160体、2009年には44体、2010年には219体の遺骨を韓国に返還することができた。

一方、いまだ返還されていない遺骨や遺品が日本国内に残る。たとえば、札幌市の浄土真宗本願寺派寺院「札幌別院」に保管されている戦時下で犠牲になった人々の遺骨と遺品は100体分あまり。この実態に関する調査の必要性が指摘されたのは1997年。その遺骨、遺品は朝鮮人、中国人、そして日本人のものだ。これら戦時下に起因する何らかの遺骨や遺品の存在に着目し、その真相調査をすべきだと指摘したのは北海道深川市の浄土真宗の僧侶殿平善彦さん(68歳)だ。殿平さんは僧侶であり、空知民衆史講座を率い民衆史の掘り起こし運動のリーダー。1976年、北海道朱鞠内ダムの湖畔の古寺に遺された朝鮮人の位牌の存在を知り、戦時下に北海道に動員された朝鮮人、中国人たちの真相究明と遺族調査、さらには遺骨返還に取り組んできた人だ。

朱鞠内ダムは戦時下に建設された水力発電用の人口湖。現在はもっぱら幻の魚イトウ釣りや冬のワカサギ釣り、カヌーを楽しむ行楽地として知られる。位牌が安置されていた湖畔の古寺は浄土真宗大谷派の光顕寺。すでに深刻な過疎化が進み、住職もいなくなったこの寺の信徒が、殿平さんに相談を持ちかけ、人口湖と戦時下の強制動員との関わりに脚光をあてるチャンスが生まれた。

住民の証言などをもとに、朱鞠内湖畔の集落のはずれの共同墓地、いやその共同墓地に隣接する笹薮の中にダム建設中に犠牲となった人々の遺体が埋まっていることを知る。殿平さんら空知民衆史講座のメンバーが笹薮の発掘を決意、1980年代に入り、数度にわたり調査が行われた。

掘り出された遺骨は副葬品などから名前を特定し、役場に残る埋火葬認可書と突合せ、身元を明らかにする地道な作業を続けた。もちろん、発掘された遺骨のすべての身元を明らかにできたわけでない。また、これら遺骨の中に朝鮮半島の出身者のものが多くあった。わかった範囲で死者の名前と旧住所を割り出し、遺族の所在を探し出すため、死者の名で手紙を送るという、もはや常識を超えた歴史真実の掘り起こしの作業に取り組んだ。

また、殿平さんは、この発掘作業に若者を参加させたいと1997年に日韓共同ワークショップを開催した。日韓の若者が現代史の忘れられた真実を前に、出会い、語り、つながることをめざした行事だった。朱鞠内は札幌から特急で2時間。さらにそこから信号なき道を1時間半かけて向かう。言葉は悪いが辺境の地だ。この地に連れてこれら、そこで没した魂の眠る地に、日韓、そして在日の若者たち100名が10日間に渡り、取り組んだのが日韓ワークショップだった。

この時の発掘では4体の遺骨があがった。2体は棺があり、副葬品から日本人であることがわかり、その後遺族に返還されている。一方、もう2体は歪(いびつ)な姿勢で、それも小さな穴に押し込められたような状態で発掘された。副葬品はみつからず、身元は現在もわからない。現在、その遺骨は笹の墓標展示館に安置されている。笹の墓標展示館とは戦時中のダム工事で犠牲になった人々の遺体が一時安置されていた光顕寺のこと。まさに戦時下を、そして戦後を見つめてきた湖畔の古寺が、歴史事実を伝える貴重な資料館として整えられている。

殿平さんは北海道に残る戦時下の強制動員の歴史の照明に生涯をかけておられると言っていいが、僧侶として自らが住職を務める一乗寺を切り盛りし、社会福祉法人の理事長として子息に譲られるついこの前まで保育園の園長を務めておられた。一方、自らが所属する浄土真宗本願寺派と戦争の関わりにも発言し、国内に残る遺骨の返還に教団の重い腰を動かそうと奔走する。

また、研究目的のために奪われたアイヌの骨が保管される北海道大学に、返還と謝罪を求めた裁判では、アイヌ側とともに戦い、戦争責任を放置する日本社会と立ち向かっている。殿平さんは「隣近所でも、教団の中でも、あの寺にはアカ坊主がいるってな感じだよ」と豪快に笑う。

殿平さんと韓国との出会いは偶然だ。現在、漢陽大学文化人類学科教授の鄭炳浩(チョンビョンホ)さんが日本にフィールドワーク中、たまたま通りかかったのが多度志保育園。殿平さんの営む保育園だ。闊達な自由保育に取り組む園の前で、「見知らぬ韓国人がいる」と声をかけたのが始まりだとか。それが1989年ごろ。その縁は1997年の日韓共同ワークショップにつながり、この行事は現在も東アジア共同ワークショップとして引き継がれている。ちなみに、この行事の第1回目に在日メンバーを引き連れて参加したのが筆者だった。

2001年、殿平さんは朝鮮人、中国人の遺骨が残る札幌別院に詳細な調査を再要請した。ただ、驚くべきことは、その間に合葬してしまい、埋葬者の遺骨の個別性が失われてしまっていた。2003年に札幌別院はこの過ちを公式的に認め謝罪し、以降の真相調査に努力することを約束した。

寺院で確認された埋葬名簿をもとに、韓国政府の真相究明委員会が遺族を調査、その中から、幾人からの遺族とつながった。故陳炳洛さんもその一人だ。故郷に今も直系のご子息がおられ、ご遺族から生前の父親の顔写真が日本側にも提供された。顔写真は陳さんが日本から家族に送ったものだった。ご子息から寄せられた手紙には、父は徴用期間の終了に合わせ、日本に家族を呼び寄せたいと語ったとあり、ただ、親戚の反対で家族の日本行きを断念、故郷で父の帰りを持つことになったと当時の様子が綴ってあった。父親との最後の書信のやりとりは1945年2月初旬。それ以来、家族と父親との疎通は途絶した。

父の最期を知るよしもなく、父なき子として人生を歩んでこられたご子息。その齢も70歳半ば。懐かしんでも心穏やかになることはない父の遠い記憶、それをあえて封印して家族は生きてきた。

戦後70年近くにして突如、父の消息が日本から伝えられた。北海道南富良野鹿越の石炭鉱山で働き、30代で亡くなったことなどが資料により明らかとなり、それが伝えられた。

無念にも、陳さんの遺骨は合葬され他人のものと混ざってしまっている。ご子息は殿平さんらに「合葬された骨の百分の一と最後の地となった炭鉱の土を故郷に迎え入れ、父を祖国で弔いたい」と語った。

今年秋にも遺族の望みどおり、「百分の一の骨」「炭鉱の土」が収まった骨壷が殿平さんたちによって、かつて来た道を逆にたどり韓国へと戻る。歴史に翻弄され生きてきた家族のあまりに悲しい再会の瞬間だが、ただただ魂の鎮まるのを祈るばかりだ。

韓日関係が戦後史上最悪の状態を続けている。韓日の両首脳はそれぞれの原則的な主張を繰り返すのみで、関係改善に向けた兆しも努力も見えない。これは双方に知恵がないためだろう。そうした中にあっても、埋もれていた歴史に光陰を通し、鎮魂のために努力する人々がいる。政治に平和、和解、協働のアイデアが無くとも、韓日交流が続くのは、こうした民間レベルの努力、市民交流の地道な取り組みがあるからだ。

日本にはまだ戦時下に動員された朝鮮人、中国人の「遺骨」が放置され、返還の機会を待っている。殿平さんの試みから日本政府が隣国との関係改善にヒントを得ることはそう難しいことではない。ことは人道主義。異国の地で亡くなった人々の魂が海を越え祖国の地に帰るとするならば、70年の重ねた時空より、いままさにそのために動かんとする人々に心は癒される。「遺骨」はむしろ後世に生きる私たちにそのことをあえて伝えようとしているのではないか。

秋の陳さんの遺骨返還、その物語もまたこの紙面で伝えたいと思う。

 

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