東北アジアの市民交流を進める歴史と教育のマダン

1.400年前まで3千里

1.1 明の時代を描いた古地図

白頭山(長白山)から南端の海岸線までの距離は、約800km、すなわち約2千里である。残りの千里はどこへいったのか?私の長年の疑問は、大阪大学 付属図書館のウェブサイトで公表されている古地図により解決した。

No.39 Carte de la Province de Quan-tong ou Lyau-tong et du Royaume de: Kau-Li on Coree. (『遼東及び朝鮮図』) [Paris], 1752?

No.39 Carte de la Province de Quan-tong ou Lyau-tong et du Royaume de: Kau-Li on Coree. (『遼東及び朝鮮図』) [Paris], 1752?

No.49 Rigobert Bonne: L'Empire de la Chine avec la Tartarie Chinoise. (ボンヌ『中国・タルタリア図』) Venezia, 1779

No.49 Rigobert Bonne: L’Empire de la Chine avec la Tartarie Chinoise. (ボンヌ『中国・タルタリア図』) Venezia, 1779


「西洋古版アジア地図」の古地図No.49, No.39及びNo.45には、現在の中国吉林(Jilin)省のうちの、北西端部(元は草原地帯)を除いた中南部が、朝鮮に属する領域として描かれている。これらの図の要部を下記に示す。特にNo.39には、朝鮮の平安道及び咸鏡道より北の「満州(Manchuria)」として描かれている。なお、この満州の北端は、現在の吉林市とハルビンとの間の中間線あたりにある。白頭山(長白山)の北側に千里足らずの領土(属領)があったので、現在の約2千里と合計して3千里である。

No.45 Rigobert Bonne: Carte de la Tartarie Chinoise. (ボンヌ『中国領タルタリア図』) Paris, 1771

No.45 Rigobert Bonne: Carte de la Tartarie Chinoise. (ボンヌ『中国領タルタリア図』)
Paris, 1771

これらの古地図は、中国の海岸線が非常に精確に描かれており、明の時代の中国で作成された地図を翻訳したものと考えられる。古地図No.49及びNo.39において、中国の遼東と朝鮮との間の境界線は、正確に一致している。鴨緑江河口の北方にあった旧地名「高麗門」の位置とも一致している。また、鴨緑江の下流部分と、現在の延辺朝鮮族自治州の汪清県(図門より北方に少し離れた箇所)を除けば、現在の吉林省と、遼寧省及び黒竜江省との境界に、ほぼぴたりと一致している。

古地図No.39では、吉林省より東北の現在の黒竜江省やロシア沿海州まで入っているが、これは、15世紀後半に、朝鮮王朝が女真を占領したときの様子を描いていると考えられる。また、古地図No.45には、リャオトン(遼東:現在の遼寧省)まで朝鮮に属するものと描かれている。朝鮮王朝の初期には、明の軍隊を駐留させたものの、朝鮮王朝の支配が及んでいたのかも知れない。

 

1.2 聖地であるManju(満州)-天に近い最初の土地

吉林(Jilin)省の中南部は、17世紀初頭に満清王朝(「後金」)を打ち立てた勢力が最初に持っていた領域であり、以前の渤海帝国の中核部分である。この部分が、本来の満州であり、高句麗→渤海→後渤海→高麗→金→高麗への再編入を経て、朝鮮王朝へと受け継がれたと考えられる。なお、Manjuの語源は、日本語の「まず」(方言などでは「まんず」)及びコリア語(=韓国語=朝鮮語)のモンジョと同じで、天の山(白山;バイ山)からの水が最初に流れ込む神聖な土地を意味すると考えている。中国、モンゴル及びロシアの三国国境地帯に満州里があるが、これは、モンゴル中部から流れるケルレン川が、最初に形成する農耕可能な地域である。なお、白頭山(中国名は「長白山」)頂部にあるカルデラ湖の名前は、天池であり、この水が、北へ流れ出して松花江の源流をなしている。

満州と鴨緑江流域は、高句麗帝国の発祥の地であり、高句麗が、漢帝国や魏朝などと戦って古代朝鮮帝国の領土を取り戻していく本拠地であった。

 

1.3 Manjuの分離独立と、朝鮮王朝の衰退

吉林省(19万平方キロ)の中南部は、14~15万平方キロと思われ、Manjuが含まれていた頃の、朝鮮の面積は、現在の南北コリア22万平方キロと合わせて約36~37万平方キロ、すなわち現在の日本の面積とほぼ同じと思われる。日本が北海道(8万平方キロ)を完全に領有したのは、明治になってからであるので、Manjuが分離独立するまで、朝鮮は、日本より一回り大きかったのである。

吉林省の現在の農耕地の面積が、350万ヘクタールであり、中南部には、200万ヘクタールあまりが含まれると思われる。解放直後の南北コリアの農耕地面積は、400万ヘクタール足らず(北が150万ヘクタール)と思われ、Manjuとの合計である約600万ヘクタールは、日本が1960年頃のピーク時に持っていた耕地面積に等しい。日本のピーク時の耕地面積のうち、北海道が約4分の1であったと思われる。すなわち、耕地面積及び食料生産量でも、Manjuが分離独立するまで、朝鮮は、日本より2~3割大きかったと思われる。

ところが、朝鮮王朝初期の地図には、満州があまりていねいに描かれていないものがある。満州を軽視し低く見たことの現れであろうと思う。満州の人々は、壬申倭乱の際の朝鮮王朝の無能ぶりにあいそをつかし、朝鮮王朝と決別して、金王朝を復活させる道へと進んだのであった。

比較的少数であった満州の人々は、まず、独立心の強い女真を取り込む必要があったために、女真族と融合し、自ら女真の風習をも受け入れて「女真化」していったと思われる。また、中国全土を征服した後には、中国全土に、自らの文化と女真族の風習とを押し付けるとともに、中国漢族の言語と文化を受け入れ、同化していった。

 

1.4 最後に失われた土地-間島と対馬島

古地図No.39を仔細に見ると、平安道に、鴨緑江流域に属する現在の中国側の土地が含まれていることが知られる。また、咸鏡道には、豆満江流域に属する、川向こうの土地がかなり含まれていることが知られる。

1712年に建てられたとされる長白山定界碑に、長白山及び鴨緑江を境界とすることが記載されているので、この時点で、鴨緑江の向こう岸の土地(約2万平方キロ)は、失われていたと考えられる。

 長白山定界碑でいう長白山は、現在の長白山脈を言うと思われ、長白山脈と鴨緑江とに挟まれた現在の長白朝鮮族自治県、すなわち「南間島」は、朝鮮に属したままであったと思われる。また、咸鏡道に属していた豆満江流域の川向こうの土地が、「北間島」であったと思われる。「北間島」と「南間島」とを合わせた面積は、おそらく1万数千平方キロである。

 韓国には、長白山定界碑に記載の「土門河」の記載に基づき、「間島」をかなり広く解釈する人が、一部にいるようである。しかし、長白山定界碑は、長白山一帯の境界を定めたものに過ぎない。

現在、北朝鮮と中国との国境は、朝鮮にとり有利に引かれており、天池の約45%は朝鮮領となっている。すなわち、「土門河」の線を越えて、白頭山の約半分が朝鮮領となっている。金日成と北朝鮮の努力により、鴨緑江の河口の島など、グレイな部分が、最大限、朝鮮のものとなったのである。

19世紀中ごろの「大東輿地圖」によると、中国との国境は、鴨緑江及び豆満江であり、「間島」が含まれていない。

「大東輿地圖」によると、対馬が含まれており、しかも対馬が、九州の形をしている。対馬を属領とした1419年の「対馬島征伐」は、名君とされる世宗王の最初の軍事作戦であるが、全くの失敗といえる。当時、西洋よりも優れた大砲を持ち、圧倒的な軍事力で九州を占領すべきところ、小さな対馬さえも直轄領としなかった。対馬を緩やかな属領に留めたために、明治維新の際、日本の領土に組み込まれるのを防ぐことができなかった。

 

2.魏から邪馬台国へ至る道程と、三韓の領域――韓国併合正当化のドグマ

2.1 「魏志倭人伝」の明確な記載

三国志 魏書三十の烏丸鮮卑東夷傳には、最後の部分に倭人(決して倭国でない)の記載(便宜上「倭人の条」と呼ぶ)があり、魏の使節が倭人の女王国である邪馬台国に至る道のりが記載されている。なお、中国語の維基文庫(http://zh.wikisource.org/zh)で、三国志などの全文を閲覧できるが、ここでは、「邪馬壹國」(すなわち「やまいち国」)と記載されている。

日本では不毛な邪馬台国論争なるものが延々と行われている。魏の使節が現在のピョンヤンの近くから出発したというドグマから出発するから、どうしてもまともな解釈ができない。

ところが、魏の使節が、魏の都(洛陽)の近くから出発したという自然な解釈をすると何の矛盾もない。洛陽から日本列島へと向かう自然な道のりは、まず、黄河を下って山東半島の先端から東へと海を渡り、適宜に南へと海をわたり、コリア半島の南端から日本へと渡る道である。先入観なしに「魏志倭人伝」を読めば、まさにそのような道のりが記載されている。以下に説明するように、方角も距離も全て正確である。

そして、「邪馬台国」の中心地の位置は、九州の佐賀県南部から熊本県にかけた地域のいずれかである。「魏志倭人伝」中にも、中国東海(東シナ海)の東の端の辺りにある(「當在會稽、東冶之東」)と記載されている。九州の北部~中部であると考えないと、東に海を渡って千里のところに倭種の国があるとする記載や、南へ四千餘里で背の低い人が住む「侏儒國」に至るという記載などについて、合理的な解釈ができない。

・「循海岸水行,曆韓國,乍南乍東,到其北岸狗邪韓國,七千餘里」

→洛陽の近くの「郡」から出発して、海岸をたどりながら現在の中国山東省(「韓國」)をめぐりつつ南へ東へと進み、その北岸の山東半島先端部(「狗邪韓國」)に至るまで、船で約3千キロ(「七千餘里」)を進んだ。

当時の黄河は、かなり蛇行していたはずなので、直線距離の約3倍にもなったと思われる。黄河を下るのは、あまりにも当然であるために省略されている。当時の黄河の河口が正確にどこであったか知らないが、山東半島先端部まで海岸に沿って進むには、南へ東へと進むこととなる。「狗邪韓國」は、「倭人の条」の少し前の「三韓」の箇所に現れる「弁辰狗邪國」であろう。

・「始度一海,千餘里至對馬國・・・所居絕島,方可四百餘里,土地山險,多深林・・・」

→山東半島先端部から、初めて海を渡る。約400キロ進んで現在の北朝鮮のオンジン半島一帯(黄海南道の西南部)を占めていた「對馬國」に至る。(陸続きの国と対立していたために、)離れ島の生活をしている。国土は約160キロである。(黄海南道の西南部のリアス式海岸の地帯だけを持っていたために)土地は険しい。

・「又南渡一海千餘里,名曰瀚海,至一大國・・・方可三百里,多竹木叢林」

→オンジン半島の辺りから南へと、キョンギ湾(「瀚海」;ハン(瀚)江が流れ込む海」)を渡る。約400キロ進んで現在の韓国のテアン半島にあった「一大國」(馬韓の「一難國」)に至る。国土は約120キロである。(「對馬國」より南にあるので竹も育ち)竹木がうっそうとしている。

・「又渡一海,千餘里至末盧國」→再度、南へと約400キロ進んで、現在の韓国全羅南道の西北端または全羅北道の西南端部の辺りにあった「末盧國」(馬韓の「莫盧國」)に至る。

minjokushi2-1・「東南陸行五百里,到伊都國・・・東南至奴國百里・・・東行至不彌國百里」

→東南へと200キロ(直線距離ではおそらく約100キロ)進んで、現在のジンジュ(晋州)にあった「伊都國」(弁辰の「已柢國」)に至り、さらに東南に40キロ進んで現在のコソン(固城)にあった「奴國」(弁辰の「弁樂奴國」)に至り、東へ40キロ進んで現在のジンヘ(鎮海)にあった「不彌國」(馬韓の「不彌國」)に至る。

→南へと船で進んで二十日で、九州北岸の「投馬國」に至る。「投馬國」の南に「邪馬壹國」がある。「邪馬壹國」の都に至るまで、船で10日、陸を1カ月めぐりつつ、領地内をあちこち視察した。(30の小国を毎日1つずつ視察すると、ちょうど1カ月である。)

・「南至投馬國,水行二十日・・・南至邪馬壹國,女王之所都,水行十日,陸行一月・・・自郡至女王國萬二千餘里」
minjokushi2-2
「餘里」を全て無視するならば、「不彌國」から「邪馬壹國」までは、1万2千里からそれまでの道のりの合計1万700里を引いた1千300里。玄界灘を渡るのに1千里とすると、「投馬國」から「邪馬壹國」までの道のりは、300里すなわち120キロ。「投馬國」は、唐津から博多にかけた一帯と推測され、「邪馬壹國」は、博多から直線距離で南へ約60キロの位置にあったと考えると、熊本県北部の玉名のあたりかも知れない。

魏の使節は、「邪馬壹國」を視察しに来たのだから、「水行十日,陸行一月」をかけてじっくり視察してもおかしくない。

なお、「倭人の条」の直前には、「弁辰」(弁韓)の「瀆盧國」が倭と境界を接しているとの記載がある。そのため、「投馬國」は、弁韓の「瀆盧國」であろう。また、日本書紀に記載の多羅伽耶ではないだろうか。

 

2.2 一里の大きさ

日本では、魏の時代の一里の長さが、他の時代とは異なったという主張がある。

しかし、同じ「烏丸鮮卑東夷傳」の高句麗及び夫余に関連した箇所には、「遼東」から、高句麗(の都)まで東へ千里であり、高句麗(の都)の西北にある玄兎故府から扶余まで北へ千里という記載がある。「遼東」を、現在の遼陽と考え、高句麗の都が鴨緑江の中流域であるとすると、山岳地帯を通ることから、実際の道程は、約400キロ前後となると思われる。高句麗の都の西北の方角にある鉄嶺のあたりに玄兎故府があったとし、夫余の都が現在の夫余市であるとすると、平原地帯を通るので、やはり約400キロ前後となると思われる。

倭人の女王国まで1万2千里という記述は、後漢書の東夷伝にもある。また、道のりについて魏書「倭人の条」と同一の記載が、7世紀初めに書かれたとされる梁書にもある。一里の長さが大きく変動したという主張は、実際上、根拠がない。

なお、一戸の大きさ(人員数)は、各国の社会制度により、10倍くらいは変動すると思われる。

 

2.3 三韓の範囲-「韓在帶方之南,東西以海爲限,南與倭接,方可四千里」

魏書の「烏丸鮮卑東夷傳」中には、三韓が、4千余里にわたって延びていると記載されている。コリア半島における三韓の部分は、千里しかない。

そのため、「東西以海爲限」は、海によって東と西で「区切られている」と解釈すべきである。すなわち、山東省の千里と、コリア半島の千里と、北海道を除く日本列島の2千里とを合計したものである。なお、後漢書には、三韓についてのみ、「地合方四千餘里」とある。

したがって、日本列島内で、「弁辰」(弁韓)及び秦韓と、倭人の小国家とが接していた。

 

2.4 楽浪と高句麗

魏書の記述によると、現在のピョンヤンのあたりに、楽浪がある。しかし、この楽浪は、「今朝鮮」または「朝鮮」とも記載されている。漢武帝が滅ぼした朝鮮が出現するのは不合理である。コリア半島西北部にあった「今朝鮮」は、楽浪郡とは別の、小さくなったミニ朝鮮と解釈すべきである。こう解釈すると、高句麗が「楽浪国」を併合したという伝説とも一致する。

なお、高句麗は、後漢書の記述でも既に二千里ある。「蓋馬山」(長白山脈一帯)から西へ二千里とすると、西遼河流域にある草原地帯を持ち大量の軍馬を持っていたと思われる。面積は、東西800km×南北450kmとすると、約36万平方キロで、北海道を含む現在の日本とほぼ同じである。さらに、約千里あった東沃沮と、濊貊と、小水貊とを属領にしており、合計の面積は、約50万平方キロと思われる。魏に対抗する軍事力を持った高句麗の都のすぐ南に魏の支配地があったと考えることはできない。

三国志の三国中で最も強かった魏が、高句麗の都まで攻め込んだことがある。しかし、高句麗が、魏の軍を引き込んで、有利な条件で戦ったものと解釈できる。

 

2.5 秦韓(辰韓)と、京都の太秦

魏志その他の正史には、三韓のうちの一つである辰韓について秦韓ともいい、秦が滅んだ際に逃れてきて、土地を譲ってもらった人たちの国であると記述している。また、京都盆地を開拓した「はた」(秦)氏は、氏の名称に秦の字を使い、秦の系統であるとしている。広隆寺のある京都の太秦(うずまさ、元は「うつまさ」)にも、秦の字を使っている。しかし、「はた」及び「うつまさ」は、中国語でなく、コリア語の系統の語である。

したがって、秦の支配層となっていたコリア系の人たちが、原住民である縄文人(「倭人」)地域に侵略してフロンティアを建設したのが秦韓(辰韓)であると考えられる。コリア半島の東南端部の土地は、フロンティア建設のための出撃基地として、古代朝鮮帝国から譲ってもらったのかも知れない。

考古学的な研究結果によると、日本の弥生時代は、九州北部では紀元前7世紀に始まっていたとされるが、その他の地域では、紀元前2~3世紀に始まり、一気に本州北端の青森まで達していたとされる。秦が滅亡した紀元前200年頃から、秦からの人たちにより一気に日本の本州に植民地が築かれていったと考えると、考古学の研究結果と符合する。

八幡(やわた、元は「やはた」)神社は、稲荷(いなり)神社とともに、「はた」(秦)氏に関連したと考えられる。京都の石清水八幡宮(いわしみずはちまんぐう)も、元宮(もとみや)は、九州の大分県北東部にある宇佐神宮であるとされる。九州の北東端部も、古代朝鮮帝国から譲ってもらったのかも知れない。

新唐書によると、新羅について、縦三千里、横千里としている。秦韓(辰韓)の諸国を糾合した新羅が、コリア半島中、落東江の東側の約700里と、日本の本州の2000里あまりを合わせて「縦三千里」であったと思われる。日本の本州で、新潟県南部から伊豆半島に至るあたりは、約1000里の幅がある。なお、新羅神社は、本州の日本海(トンヘ)沿い全体と、関西、長野県などに分布している(三井寺>連載>新羅神社考http://www.shiga-miidera.or.jp/serialization/shinra/index.htm)。

三重県の伊勢(いせ)神宮は、天皇制神道(しんとう)の総本山の1つであるが、兵庫県北部の出石のものが、元宮であるとされている。出石は、新羅の王子「あめのひぼこ」が、兵庫南部→大阪→滋賀などと巡った後、最終的に落ち着いた場所である。

 

2.6 倭人と、日本人及びコリアンの血統

倭人は、魏書及び後漢書によると、顔にも体にも刺青(いれずみ)をしている一夫多妻制の人々である。すなわち、縄文人である。

NHKスペシャル「驚異の小宇宙・人体3 遺伝子・DNA〈3〉日本人のルーツを探れ」で紹介されたミトコンドリアDNAの解析結果によると(http://www.kumanolife.com/History/dna.html)、日本人は、コリアン固有の系統が24%、中国系が26%、縄文系が29%である。すなわち、単純に考えるなら、固有コリアンと中国系とが1:1で混じった弥生人(山東省の人、または三韓の人)が、縄文人と、2:1の割合で混じったのが日本人である。また、コリアンでは、固有コリアン系が41%、中国系が22%、縄文系が19%である。コリアンは、弥生人(山東省人)と、高句麗人と、縄文人とが約2:3:1で混じったものかも知れない。

 

2.7 伽耶の鉄

日本の出土鉄器についての微量元素分析結果によると、3~6世紀の鉄器は、大部分がコリア半島の南端部の鉄原料から作られたものである。伽耶が、倭人の小国家群に鉄を売り、労働力及び兵力として「倭」を得ていたと推測される(NHK「ETV特集 日本と朝鮮半島2000年」)。

 

3.広開土王碑文の解釈―隠蔽された大帝国

(碑文は、維基文庫のものでなく、「日本と朝鮮の関係史 日朝友好促進京都婦人会議 編」に掲載の上田正昭京大名誉教授のものに依拠した。)

3.1 碑麗(ビリ:裨離)と土谷因(吐谷渾)

395年に広開土王が自ら軍を率いて碑麗への大遠征を行った。碑麗は、晉書に記載の「裨離」であると考えられる。すなわち、「肅慎」から西北に5万里の道程を二百日で到達する場所、現在の西シベリアであり、15世紀にシビリ・ハン国があった場所である。既に、内モンゴルとモンゴル共和国のほぼ全体を支配していたと思われ、アルタイ山脈南麓のブユン、ブーハイ(富山)を「討過」して、オム川(鹽水)沿いの部落(現在のオムスクの近く)を破り、東と向かってオビ川湿地帯(五備海)を通り、領地を奪って帰って来た。

土谷因を服属させたと理解できる箇所があるが、この土谷因は、晉書などに記載の「吐谷渾」、すなわち、現在の中国青海省であると考えられる。攻撃しにくい青海省を服属させるには、新彊ウイグル自治区一帯を支配したと考えられる。396年からの大遠征の場所は、現在の新彊ウイグル自治区、及び、中央アジアの東部と考えられる。舍鳥城が、タリム盆地西南部にある現在のソーチョ、古模耶羅城がカシュガル、阿旦城がホタン(和田)、仇天城がクーチョ(庫車)、迫城がパイチョン(拝城)であろう。抵抗する迫城に対し、東の仇天城の側から攻撃していたところ、西のアクス川(阿利水)を越えて背後を突いたのであろう。

なお、新唐書によると、渤海は、高句麗の3分の1に縮んで、方五千里(二千キロ)である。高句麗滅亡後、高句麗系の唐の将軍である王仙之が中央アジアでイスラム帝国と戦ったが、中央アジアの高句麗の領地が、高句麗が分裂した際に、唐に加わったのであろう。

また、中央アジア東南部のキルギス(Kyrgyz)は、本来クルグズと読む(ロシア語でyはウと読む)のであり、「高句麗の城」などの意味と推測される。

 

3.2 百済帝国との対決

梁書には、「晉世句驪既略有遼東,百濟亦據有遼西」と記されている。すなわち、三国に続く晋の時代、百済が遼西を持っていた。前述のように明の時代にも遼東は、現在の遼寧省であると考えられるから、遼西は、現在の河北省である。このとき、百済が山東省も持っていたであろう。また、4世紀末の奈良の石上(いそのかみ)神宮七支刀の碑文によると、百済が奈良県一帯をも支配していた。百済は、中国河北省から日本列島へと至る帝国を築いていたのである。当時の百済は、「遼西」の中心である北京(燕京、平都)を都とし平壌(ナラ)と呼んだのであろう。高句麗と百済の対決は、ローマ帝国の市民軍と、カルタゴの傭兵との戦いに似ている。但し、高句麗は、同族を「討滅」しなかった。

minjokushi3-1

 

3.3 「朝貢而倭」:倭人(労働力、兵力)をも献上

・「百殘新羅舊是屬民由來朝貢而倭以辛卯年來渡海破百殘□□新羅以為臣民」:百済と新羅は、元来、朝鮮帝国の臣民であり、朝鮮帝国に朝貢を行い、倭人(労働力、兵力)をも献上していた。(朝鮮帝国を受け継いだ高句麗に服属すべきあるので)、(広開土王が即位した)391年から(395年までに)、海を渡って百済を破り、また新羅を服属させて高句麗の臣民とした。なお、「而」には、「~までも、~さえも」という意味もある。

・「以六年丙申王躬率□軍討滅殘國軍」:(百済及び新羅を服属させたので)、396年、王が自ら軍を率いて、(百済及び新羅以外の)残りの国の軍を討滅した。

・「百殘違誓與倭和通王巡下平穰而新羅遣使白王云倭人滿其國境潰破城池」:百済は、(高句麗に服属するとの)誓いを違えて、倭人勢力と通じ、王が北京へと下っていった。そして、新羅の使いが、高句麗の白王に言ったところによると、(百済の手下である)倭人の滿其と、その国境にいる潰とが、新羅の「城池」(堀、すなわち防衛線)を破った。

・「至新羅城倭滿其中」:新羅の領内に至ると、倭人の滿が領内にいた。

・「十四年甲辰而倭不軌侵入帶方界・・・王躬率□□從平穰□□□鋒相遇・・倭寇潰敗」:404年に百済の倭兵(傭兵または奴隷兵)が、高句麗が支配していた山東省近くに侵入して来たので、王自ら率いた軍で、北京でぶつかり、倭人の潰を打ち負かした。

・「攻破城六十四村一千四百」:64の国と1400の町を征服した。

・「守墓人煙戶賣勾余民國煙・・・・細城三家為看煙」:征服された国の王侯貴族の遺族(守墓人)たちが、厚く弔いを行えるようにした。また、これら遺族を別の国に移して、そこで法事を行うようにした。

 

3.4 高句麗による倭国の建国

韓国のチョン・ドゥファン大統領が来日したときの昭和天皇のお言葉によると、日本の建国は、5世紀ころである。5世紀頃と思われる宋書に初めて「倭国」の語が現れる。宋書に、「自稱使持節都督倭百濟新羅任那秦韓慕韓六國」とあることから、北海道を除く日本列島内の諸勢力が融合した国家であろう。また、高句麗が百済及び新羅を服属させていた時代であったため、高句麗が作ったと思われる。5世紀には、高句麗系の渡来人により、関東平野の開拓が進む。

広開土王碑文には、「帰服安羅人戍兵」の語が登場するが、高句麗の傘下に入った伽耶勢力であると推測できる。そうだとすると、高句麗が、伽耶系(日本伽耶、任那伽耶)の王族を、倭国の国王(後の天皇)にしたのかも知れない。日本で韓を「から」と読み、天皇家の祭神が「からかみ(韓神)」様で、文字が「かな」、金属品を「かなもの」と呼ぶ。日本書紀に記載の「あはぢしま」は、アイヌ語のアパ(河口)から解釈すると、黄河の河口の地と推測され、この辺りにあった伽耶の地ではないだろうか。なお、アイヌ人は縄文人(本来の倭人)の直系であるが、アイヌ語はアルタイ系言語である。弥生人による征服王朝があったためではないか。

 

4.高句麗の継承

4.1 高麗の小統一による三千里

契丹の攻撃により渤海が滅んだのが926年であるが、高麗と契丹(遼)との戦争は、998年に始まった。渤海の滅亡後も、ミニ渤海(後渤海)が渤海のコアの部分(Manju+鴨緑江流域+豆満江流域)に残ったためと考えられる。後渤海のうち鴨緑江の部分が990年頃に高麗に加わったために、鴨緑江の河口付近で高麗と遼とが国境を接するようになり、この箇所から遼が攻め込んで来た。高麗と契丹(遼)との3回の戦争の後、後渤海の全体(Manju)が高麗に加わり、三千里となったのであろう。なお、935年の白頭山の第2次噴火(第1次噴火は890年頃)の際に、渤海の王侯貴族が、現在の北朝鮮の東海岸と、豆満江流域の領地とともに高麗に加わったので、高麗が一気にミニ新羅と、後百済を吸収することができたのだろう。

ピョンヤン一帯にはミニ高句麗が残ったと考えられ、新羅と渤海の境界である泥河は、テードン江(大同江)でなく、イェソン江(礼成江)のあたりと思われる。そのため、「統一新羅」は約千里であり、三千里の統一高麗では、渤海―高句麗系の方が新羅系より多かったことになる。これが、日本とコリアとの文化・習慣の違い、及び、DNAでみる固有コリアンの比率の差に現れていると思う。

女真征服の後の統治の失敗で女真が離れた後、Manjuは、分離独立し金を建国した。金がモンゴルに滅ぼされた後、モンゴル支配を嫌った人々が本拠地であるManjuに戻り、高麗とともに、元(モンゴル)と戦ったと思われる。そして、元の末期に、Manjuが再度、高麗の一部になったのであろう。

 

4.2 高句麗の風俗・伝統の継承

魏書には、高句麗に固有の習慣として、以下のことが記載されている。

・結婚後に男性が女性の実家の裏に建てた小さな家に住み、子供が大きくなるまで過ごす。また、女性が男性の小さな家に泊まってくれるよう、女性の両親に再三ひざまづいてお願いをしてから許してもらう。

・国中の町や村で、夜遅くまで男女が集まり互いに歌を歌って遊ぶ。

結婚して男性が女性の家で過ごす習慣は、壬申倭乱の頃まであったといわれる。今もチャンガ・カンダという言葉に残されている。また、男性が懇願して許してもらうという習慣は、トンサンジという形で残っている。夜どおしお祭りをする習慣も、壬申倭乱の頃までは全国にあったのであろう。

魏書には、高句麗の衣服に関連した記述の中に、チョゴリ(幘溝漊)と読める箇所もある。チョゴリは、女性でも馬に乗って弓を射ることのできる服装である。商業だけでなく軍事でも女性が活躍したために女性の地位が高かったのではないだろうか。

押し隠されたとはいえ、高句麗の伝統と気概が、コリア民族に染み付いているのだと思う。そして、日本との間の、気質や習慣の違いが、高句麗からの影響の差により生じたのであろう。

 

5.むすび

中国の正史、碑文や銘文、考古学やDNAなどの科学的データに基づき古代史を調べてみたならば、日本人の常識とは、あまりにもかけ離れている。韓国の国史の教科書とも大きく異なる。客観的に古代史を見たならば、日本人がアジアとはかけ離れた特別な存在であるという「日本人意識」そのものが揺らいでしまう。

古代史以上に客観的な検討が必要なのが、近代・現代史である。今年(2010年)がKorean War(朝鮮戦争、625動乱)勃発から60年であるが、月刊新東亜の2010年5月号p228~247の「南北現代史10大秘話-最初の北派工作隊『虎林部隊』の悲劇的運命」によると、実質上1949年には戦争が始まっていたという。また、2010年6月号p480-499の「南北現代史10大秘話2」の記事によると、南労党のイー・スンヨプが主導権争いで勝つために米軍情報局に積極的に協力したことが米国の記録から裏付けられたという。これらの点も、日本や韓国の常識と大きく異なる。北朝鮮は南進時の虐殺の責任の多くが、南労党にあるとしているが、本当かも知れない。

現代史の見直しの中で、在日同胞の歴史も十分に再検討され記録されることを望む。特には、京都大学の同窓生に縁の深い「青丘寮」の歴史が後世に残されることを切に望む。

筆:夫世進(コリアNGOセンター理事)

*本稿は、在日コリアンである夫世進の独自の論説(original article)であり、2010年11月発行の「京都大学コリア同窓会便り12号」に掲載されたものである。但し、「後渤海」は韓国のインターネット記事を参考にしている。

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