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-第8回在外同胞NGO大会に参加して-

韓国の地球村同胞連帯(KIN)が主催する「第8回在外同胞NGO大会」が、8月4日~11日の8日間、ロシアのサハリンで開催された。

サハリン南部 地図

このNGO大会は、海外に散らばるコリアン同胞、とくにNGO活動家が集まり、対話と交流の場を通じて、あるべき在外同胞政策の定立や各在外同胞社会の具体的課題の解決に向けた連帯活動を目的としている。

サハリン韓人社会は、日本の朝鮮植民地支配と侵略戦争遂行にともなう強制動員のために生み出され、戦後/解放後は日本政府の責任放棄と東西冷戦下の南北分断により半世紀にわたり故郷に帰れずサハリンに留まらざるを得なかったという特異な歴史を持っている。90年代に韓国への永住帰国が徐々に実現するようになり、これまでに3900余名が永住帰国しているが、帰れるのは戦前にサハリンに渡った人のみでサハリン生まれの二世・三世らは永住帰国事業の対象外とされるため、永住帰国には新たな離散家族状況が伴わざるを得ないなど、問題は未だ数多く積み重ねられたままにある。

サハリンで開催されるのは08年に続き2回目。今回は、サハリン州韓人協会との共同主催であり、韓国からKINの他に、サハリン希望キャンペーン、民主社会のための弁護士会、研究者ら約15名、中国同胞(韓国在住)1名、在日同胞からは私を含めて6名が参加した。また、サハリンを訪ねる旅を2年前より始めている全国在日外国人教育研究所(全外教)のメンバーら約10名も一緒に行動した。

8日間という短くない期間の間に、州都のユジノサハリンスクに宿泊しながら、コルサコフ、ブイコフ、ポザルスコエ、ホルムスク、ボロナイスクと様々な箇所を訪れ、韓人の歴史を物語る跡を辿り、また今もその地に住むサハリン同胞たちに会い、多くの貴重な話を聞いた。本稿ではその一部を紹介する形となり、全てを伝えることができないことを先に断っておく。

▼国際ワークショップを開催

国際ワークショップ

2日目の8月5日、ユジンサハリンスクのサハリン韓人文化センターにて「サハリン歴史記念館建設のための国際ワークショップ」が開催された。参加者は約200名で、サハリン同胞も多数参席した。

冒頭に発言したサハリン同胞の林龍君・サハリン韓人協会会長は、サハリン韓人歴史記念館を建設する理由として、「サハリン韓人が歩んできた苦難の歴史について証言者や歴史的記録・遺跡が失われつつあり、子孫らに対して忘れられつつある過去の歴史に関する教育が至急必要である」ことを挙げた。それと同時に、「サハリン韓人の苦難の歴史は世界平和の礎となり、二度とこのような不幸なことが起こらないように備える教訓の課題を提示している。歴史記念館は過去の苦難の痛みを記録として残すものだが、それは苦難を与えた過去の歴史に対する報復ではなく、支援や協力、友好関係を深めていく好循環構造を持って国際関係を定着させていて記念館となることを願う」と、歴史記念館が平和に貢献する普遍的役割を担う価値について語った。

続いて韓国から共に参加した2名の有識者からの発題があった。有名な建築家である金ウォン氏は「サハリン韓人歴史記念館建設の基本方向」について、韓国も含めた世界各国の歴史資料館や歴史的建造物の具体例を提示しながら発言し、慶熙大学校文化芸術経営学科教授の朴シニ氏は「記憶というコレクションを現在化する」と題して歴史記念館のあるべき性格や特性、展示のあり方などについて語った。

国際ワークショップ:出席したサハリン同胞たち

今回韓国からの参加者の中に、徴用でサハリンに渡りそのまま行方不明となってしまった父親の消息を探し続けている方がいた。お名前は鄭太郎さんといい、ご自身も既に70歳を過ぎている。鄭太郎さんの父親はご自身が生まれる前に徴用でサハリンの炭鉱に連れて行かれたため、一度も対面したことがない。後に親類や父親の友人に消息を尋ねても手がかりがつかめず、2000年に日本の厚生労働省、05年に社会保険センターに対して父親に関する調査依頼を行なったが、「保管資料が見当たらない」「(父親が働いていた)事業所の名所、所在地、勤務期間が不明なため、調査できない」と、にべもない回答しか来なかった。ご本人は08年にサハリンを初めて訪れたが、父親を知る人と出会えなかったという。鄭太郎さんもワークショップで発言し、父親について少しでも関連するような情報があればぜひ伝えてほしいと、会場にいる大勢のサハリン同胞を前に切々と訴えられた。生存されているならば93歳となる父親が今もどこかで生きているかもしれず戸籍整理もできずにいること、しかしもしも既にこの世を去っているとしたらチェサ(祭祀)も行なわないのは息子としての道理に反するからと、母親の命日に行なうチェサの時にご飯を盛った器をもう一つ置いているとのことだ。このような家族離散があたかも当然のように放置され続けているという不条理がなぜ生じ得るのか。

また後日鄭さんがされた話だが、「太郎」のような日本的な名前は同世代に多くいたけれど、ほとんどが解放後に変更したそうだ。しかしご本人は父親がつけてくれた名前だから大事にしたいという思いでそのままにしたと話された。それを聞いて私は発する言葉が見つからなかった。その時の感覚をうまく表現することもできない。がんじがらめというか、出口がどこにも見出せず息苦しい、そのような感覚に近いだろうか。この感覚は、高齢のサハリン同胞のハルモニが、日本から来た私たち参加者に対して流暢な日本語で話しかけてきた時に感じるものと相通じるものだ。

ワークショップに話を戻す。韓国の「民主社会のための弁護士会」(民弁)所属の弁護士6名もこのワークショップに駆けつけ、韓国における訴訟準備の現況について報告を行なった。

訴訟は2年前から準備を始めており、争点は主に2つある。一つは、サハリン同胞の韓国国籍有無の確認。もう一つは、10年3月制定の「対日抗争期強制動員被害調査及び国外強制動員犠牲者等支援特別法」でサハリンへの強制動員被害者にも慰労金等が支払われるようになったが「大韓民国の国籍を持っていない者」は除外するという国籍条項がある。この国籍条項が違憲である。また同特別法は、韓ロ国交が樹立した90年9月以降の死亡者も対象外としていることも問題だ。

サハリン同胞が韓国国籍を持っていないのはサハリン同胞の責任ではなく、韓国政府と日本政府がとった政策の責任(若干ロシア政府にも責任があると付け加えていた)であり、したがって韓国国籍の有無が支援対象の基準となるのは正しくない、と民弁の弁護士が語ったとき、会場にいるサハリン同胞たちからものすごく大きな拍手が起こった。

弁護士からの発言が終わるや否や、会場にいる一人のハラボジが手を挙げ、承諾を得るより先に壇上に上がり、堰を切ったように話し出した。このハラボジは、「私は二度目の離散家族を経験したくないから永住帰国せずにサハリンに残った。一人の兄は日本に暮らしていたが既に亡くなり、もう一人の兄は韓国にいる。永住帰国した韓人は支援を受けて年に1回サハリンに戻って来れるが、サハリンに残った私は一文も受け取っていない」などと語った。最初にウリマル(韓国語)、次にロシア語、最後に日本語でとご自身で通訳も全てされた。その後も、自作の詩を朗読する男性や、「韓国と日本から来た人にとくに聞いてほしい。ロシア国籍でも私たちは韓民族だ。歴史博物館建設の話は嬉しい。だが先に韓人老人の問題を解決してからにすべきだ」と訴える女性など、会場からの発言は間断置くことなく続いた。

海岸近くの草原でBBQ、韓人協会が用意してくれた

自らの意志ではなくサハリンに移らざるを得ず、その後祖国に帰ることが許されず半世紀以上を過ごした一世の同胞たち、そしてその子どもや孫たち。サハリンに住む彼ら彼女らには、その非人道的な歴史に対する清算に見合うものがほぼ何もなされていないという重い事実があることを痛感した。一方で4年前のNGO大会では、離散家族を強いる永住帰国制度の問題に対する訴えが最も多くなされていたが、今回は先述の韓国国内法による支援金の問題に対する訴えが多く聞かれた。確かに支援金支給に国籍条項を置くことは大問題であり改善されなければならない。ただこれを別の角度から見ると、韓国ではそのような過去清算の新しい動きが政策レベルで生じていることがその背景にある。一方でサハリン残留韓人という存在の原因をつくり根本的な責任を負うべき日本においては清算の動きがほぼ見られず、社会的にも問題の認知すらほとんどされていない状況がある。動きが全くない日本と新しい動きをつくっている韓国、その明確な対照性の中で、動きがある(可能性のある)韓国の方に関心が集中しているという構図の皮肉さもまた痛感した。これを変えるための行動を起こすのは、まさしく日本に住む私たちなのだという重い責任感とともに。

▼ユジノサハリンスク共同墓地に横たわる多くの朝鮮人墓碑

ユジノサハリンスク第一共同墓地の入口

3日目の午前は、宿舎から徒歩で15分ほどに位置するユジノサハリンスク第一共同墓地を訪れた。ユジノサハリンスクには現在3つの墓地があるが、最初につくられた第一共同墓地は日帝時代からあり、戦後にロシア人も埋葬される共同墓地になったとのことだ。KINは昨年7、8月に第一共同墓地にある韓人の墓を一つ一つ記録する調査活動を行ない報告書を作成している。

日本の墓苑のように墓石が密接して整然と並んでいるわけではなく、広大な森の中のあちこちに点々と数畳程度の広さを柵で囲って墓石を置くというスタイルだ(小さなベンチが併設されているお墓も散見された)。手入れがされている墓もあるが、草が生い茂り遺族がいつ訪れたのか予測がつかない墓も多くあった。韓人の墓はとくに区画が決められているわけではなくあちこちで見られたが、集中して並んでいる箇所もあった。そこでシートを敷き、参加者全員でチェサを執り行なった。この行事期間中、墓地や慰霊碑を訪れるたびに、時には炭鉱跡においてもチェサを行ない追悼の意を表した。この地で埋葬され追悼されることに安らぎを感じる同胞もいれば、意に反してここに眠る同胞もいるのではないか、そう考えると頭と胸の辺りがずっしり重くなった。

ロシア正教会の文化なのか、社会主義国の文化なのか、各墓碑には故人の顔写真が映されている。ところが韓人の墓碑のうち幾つかが、顔写真の部分が打ち砕かれていた。当然疑問に思った参加者が、同行していたサハリン同胞に尋ねたところ、韓国とロシアの関係が悪化した時に破壊されたのではという回答だった。真偽をきちんと確認したわけではないが、もし事実であれば、国家間の対立によって増幅される市民レベルの憎悪の怖さを物語るものだ。先ほどとは違った種類だが、またずっしりと重い荷を負わされた感だ。

ちなみに日本人の墓は、個人(家族)単位のものは見かけず、合同墓碑があった。中に入れないほどの大きな柵で囲まれ、芝生は綺麗に刈られきちんと整備されているのが周囲と対照的だった。

▼サハリンに残ったハラボジと、今を生きる同胞4世の子ども

炭鉱跡の建物内側

元徴用者のハラボジの話を聞く

3日目の午後は、ユジノサハリンスクから西に車で1時間半ほど走り、ブイコフという地域を訪問した。ここは朝鮮植民地期に炭鉱労働者として韓人が最も多く連れて来られた炭鉱村だった。

既に閉山された炭鉱跡に残る当時の作業場を訪れた。トロッコが走る線路も残されたままである。そこに実際に徴用され炭鉱で働いていた一人のハラボジが来られていた。周りから何度も頼まれてようやく重い口を開き、当時のことを語り始められた。ハラボジ

は1921年生まれ。44年に徴用で180名でサハリンに渡って来た。8月9日にソ連が対日参戦をし、サハリンにもソ連軍がやって来て攻撃を行なった。この炭鉱も爆撃と機関銃で攻撃され、結局4人しか生き残らなかった。白旗をすぐに上げていれば攻撃は止んだだろうに、当時の日本軍はそれを許さなかった。他の3人は永住帰国した者もいたが全員亡くなったそうだ。このハラボジ一人だけがここに残りずっと暮らしてきた。
今はお孫さんと一緒に住んでいると伺い、日本で調達した猫のデザインの小銭入れを贈り物としてお渡しした。

それから近くにある韓人協会の事務室を訪れ、地元の韓人たちと短い交流の時間を持った。そこに10歳くらいに見える韓人4世の子どもがいた。ロシア語しかわからない。こちらの参加者は誰もロシア語がわからずコミュニケーションがほぼできない状況に佇むしかなかった。が、今回韓国側参加者で最年少の高校生が近づくと、二人は言葉が通じなくてもお構いなしそれぞれの母語で話しかけ、二人で外に遊びに出て行った。このコミュニケーション力はやはり大人は子どもにはかなわない。事務室にまた戻ってくると、サハリン4世の子は手持ちのルーブル硬貨をプレゼントとして、こっそり韓国高校生の服のポケットに入れるという洒落た振る舞いもしていた。まさにこれからを生きるサハリン同胞だ。

▼集団虐殺された朝鮮人の慰霊碑

ボザルスコエにて:追念碑の前でチェサ

5日目。ユジノサハリンスクから車で1時間半ほど移動して、ポザルスコエにある韓国人被殺者27人追念碑を訪れた。その碑には、既に敗戦が宣告されていた45年8月20日から22日までの3日間、日本人がソ連軍と協力し、日本人に危害を及ぼす可能性があるという理由で韓人27名を虐殺するという蛮行があったと刻まれている。「私たちすべてが、過去を永遠に記憶し、戦争の虚妄を知り、人類平和を愛好し、犠牲者たちの冥福を祈ろう」との一文で締め括られている。1996年に韓国の社団法人海外犠牲同胞追念事業会が建てたこの碑は、車道から徒歩で細道に入り5分ほど進んだ草むらの中にある。ここにあることを知らなければ、看板一つさえないこの碑を見つけることは不可能だ。

レオニドボの朝鮮人慰霊碑

さらに翌日の6日目。ユジノサハリンスクから北に325㎞、車で8時間もかかるレオニドボという地域にある朝鮮人慰霊碑も訪問した。こちらも知っている人がいなければまず訪れることはない細道の脇に佇んでいた。45年8月18日に日本の憲兵と警察によって朝鮮人18名が虐殺された。父と兄を虐殺された金ギョンスンという女性が92年に痛恨の碑として建てたと刻まれている。私たちが訪れた時は碑石が汚れていたので、参加者で汚れを磨き落とし水拭きをしてから、他と同様チェサを執り行なった。

戦争で住民が軍隊に虐殺される話は枚挙に暇がないが、サハリンで日本人が韓人を殺したことを知っている人ははたしてどれだけいるのだろうか。自分自身の無知も含めて、頭と心に刻まなければと思った。

今回のNGO大会で経験したこと、感じたことを全て一つ一つ取り上げて報告しなければならない責務を強く感じながら、それを十分に表現できるだけの整理と、かかる労力を担う決心が未だついていない。しかし私個人の主観的な経験でとどまらせることなく、時間をかけてでも表現し伝えていくことが大事だと思う。悔しくも、日本ではサハリン韓人が歩んできた歴史、いやサハリン韓人の存在すらほとんどの人が知らないという状況にある。既に70年も過ぎているにも関わらず。しかし、知らせることから始めるしかないことも事実で、そのための役割を、当然日本社会がしなければならないことであるが、在日同胞も多くを担うことができればと強く思う。

サハリン韓人歴史資料館建設のための推進主体は既に韓国ではつくられ、サハリンでもほぼ形が決まっているが、今後日本でも結成する予定にある。また近々サハリン韓人の代表団が東京を訪れ、国会や省庁、メディア、市民社会に訴える機会もつくる予定である。多くの人の関心と参与をお願いしたい。

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