東北アジアの市民交流を進める歴史と教育のマダン

植民地支配からの解放を喜んだ1945年、同胞たちは子女教育こそが在日朝鮮人社会の復興の原点と位置づけ、在日社会をあげ朝鮮人学校の建設に取り組んだ。奪われてきた言葉、文字、歴史、文化を取り戻し、子どもらに民族の心を灯したいとの情熱がほとばしった。
ただ、それもつかの間、1948年に入ると、占領国軍(GHQ)と日本政府は、在留朝鮮人を危険視し、朝鮮人自主団体を敵視し、その指導のもとに建設された朝鮮人学校を不許可にした。全国に500ヶ所を超える朝鮮人学校、朝鮮語講習所などを違反であるとし、朝鮮人子女は植民地支配時期同様に、日本の公立学校で教育を受けなければならないと通知した。これにより朝鮮人学校は閉鎖されることとなり、これに抗った朝鮮人社会の闘いを「4・24阪神教育闘争」と言う。
1948年4月から5月にかけ一斉に行われた闘いの中で、朝鮮人社会は大きな弾圧を受けた。死傷者も生み出す激しい抑圧の中で、これ以上の犠牲者を出すわけにはいかないと判断し、朝鮮人代表者らが文部省に事態収拾を要請した。その過程の中で、覚書が交換された。朝鮮人学校の閉鎖をいったん呑んだ上で、のちに自主学校の再建を容認することと、朝鮮人子女が送られることになる公立学校で民族教育の機会を提供することであった。
この覚書が根拠となり、以降、朝鮮人学校が再建されていった。これが現在の「朝鮮学校」となる。また、公立学校における民族教育の機会提供として開設されたのが「民族学級」(名称は朝鮮人学級、朝鮮語学級、特別学級など多様)であった。現在、わかっているだけで、13府県の77箇所の公立小中学校に民族学級が開設されていた。
大阪は、日本でもっとも大きな同胞集住地域であることから、もっとも多い33箇所の公立小中学校に開設がされた。

「定年が近くなった何年かはね、いつも学校の向かえの喫茶店にいてはってね。玄(げん)先生、ここで何してはるんや。はよ学校、もどりましょってね、よく呼びに行ったもんです。」

阪神教育闘争を契機として民族学級が開設された守口市立第二中学校。ここに開設当初から退職される1988年まで、民族講師として勤務された玄尚好(ヒョンサンホ)ソンセンニム(先生)がいらっしゃる。玄ソンセンニムの元同僚の日本人教員が語ったのが前の言葉だ。この元同僚は同時にこのようにも語った。「さみしかったんやな、たった一人の朝鮮人教員だったから。民族学級は当初やっていたと思うけど、周りの日本人教員の民族教育の理解もなくて、民族学級に子どもたちが集まらなくなっていた。玄先生はそのうち書道を担当されるようになった。でも、民族教育のために自分はいるはずなのに、と悔しい思いをされていたと思う。苦しい時代を生きはった。」
玄ソンセンニムが生前に遺された「書」が、第二中学校の子どもたちに紹介された。2012年3月8日のこと。その日は、玄ソンセンニムの退職後に再開されて現在に続く民族学級修了式。第二中学校長の南修治先生がこの日にあわせ自宅から「書」を持参されてきた。南先生は教員として初めて着任したのが第二中学校だった。そこで、玄ソンセンニムと出会った。南先生が30年近く大事にしてこられた「書」は、南先生の転勤に際し、玄ソンセンニムが送ったものだった。
苦楽を共にした同僚が転勤していくことを惜しんでのもので、色紙に毛筆の力強い文字で「瞑想」と書かれていた。
南先生は「まだ若かった私は体力に満ち溢れ、全力で毎日の仕事にとりあたっていた。しかし、その中で見逃したり、気づかなかったことも多い。玄先生は、まだ若い私に一呼吸おいて仕事にあたれとのメッセージをくださったのだと思う。」と書を掲げ、子どもたちに語りかけた。

すでに今は故人となられた民族講師玄尚好ソンセンニム。植民地の時代を生き抜き、戦後直後の社会を垣間見、差別と貧困を乗り越えられた在日一世。教育こそ命だとの使命感一つで大阪の公立中学校に30数年携われた。
第二中学校の民族学級の授業は、70年代、そして80年代後半まで実施されることはなかった。だが、孤独に耐え、日本人教員からの冷淡視にもめげず、辞めずに続けてくださったことで、その意志は後身に受け継がれることができた。守口市立第二中学校は現在、守口市立学校園の民族教育を牽引し、国際理解教育の推進拠点として高い評価を受ける。
民族にルーツある子どもたちが父母、祖父母について学んだことを称える民族学級修了式。修了生たちを応援するために自主的に参席してくれた総勢50人超えるクラスメート。全教職員も見守る中、南校長先生の話は心をつかむものだった。そんな場所に同席できたことの光栄は簡単には言葉にできない。実に心温まる場でありながら、玄ソンセンニムを偲び、在日一世を思う機会となった。
玄尚好先生の書は、守口市の、大阪の民族教育史を知る上で貴重なものだ。大事に遺していただきたい。来年2013年は阪神教育闘争からちょうど65年目を数える年でもある。

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